街と人の記憶を螺旋につなぐ 「モルエラニの霧の中」の坪川拓史監督
待ちに待った港への接岸が、いよいよ間近に迫ってきた。2014年5月の撮影開始からおよそ7年。数多くのキャスト、スタッフを乗せて、「モルエラニの霧の中」という船がついに劇場公開にたどり着こうとしている。7章で構成された3時間34分もの大作で、撮影だけでも4年半の年月を費やした。新型コロナウイルスの影響で、約1年の公開延期を余儀なくされたが、坪川拓史監督(48)は今、期待と興奮で胸を高鳴らせているに違いない。(藤井克郎)
★「あ」からの順番でつながった縁
違いない、というのも、実は坪川監督にインタビュー取材をしたのは2019年の暮れ、まだコロナのコの字も口の端に上っていないころだった。2020年3月から岩波ホールで公開されることが決まって、「本当にうれしい。信じられない」と心情を吐露していた。
岩波ホールは、坪川監督にとって特別な思い入れがある。2005年に長編映画「美式天然」を作ったとき、どうやったら映画館で上映してもらえるかわからず、タウンページの「あ」から順番に電話をかけた。すると「い」で岩波ホールに当たり、映画を持っておいでと返事をもらったという。
「そしたらスタッフの原田健秀さんが見てくれて、『これ、すごくいいから、英語字幕をつけな』って言ってくれた。そこから川喜多記念映画文化財団を紹介してもらって、その後のトリノ国際映画祭グランプリにつながったんです。岩波ホールがあったから、今の僕がある。『ゆわなみ』でなくてよかった」と坪川監督は懐かしむ。
その後、「ハーメルン」(2013年)のときも岩波ホールに声をかけたが、すでに3年先まで作品が決まっていて、残念ながら上映には至らなかった。だがこのとき、たまたま映画を見にきていた女優の香川京子を紹介してもらう。ほんの30秒程度の挨拶だったが、いつか自分の映画に出てほしいと思っていたら、今度の「モルエラニの霧の中」で実現した。さまざまな出会いが縁を結んで映画が完成し、コロナ禍で1年遅れたとはいえ、2月6日には岩波ホールで公開される。「本当にうれしい」と連発していた坪川監督の喜びようが目に浮かぶ。
★花びらが1枚もなかった撮影初日
「モルエラニの霧の中」は、坪川監督が居を構える北海道室蘭市を舞台にした作品だ。室蘭で生まれ、同じ北海道の長万部町で育った坪川監督は、18歳で上京。劇団「オンシアター自由劇場」の研究生などを経て、1996年に無声映画「十二月の三輪車」で監督デビューを果たす。その後、「美式天然」(2005年)、「アリア」(2007年)と、独特の映像美と世界観に貫かれた作品で高い評価を受けるが、2011年、「ハーメルン」の制作中に家族で室蘭に移住する。3月の東日本大震災がきっかけだった。
「東京では一軒家に住んでいたのですが、ぼろかったので半壊してしまった。ちょうど上の子どもが小学校に上がるタイミングだったので、じゃあ行こうかってなったんです。3月の末におじが亡くなって、その家に住むかいって言われたものですから」と坪川監督は振り返る。
ところが移り住んで室蘭の街を散歩していると、すてきな建物がいっぱいあるのに、ものすごいスピードで壊されていることに気づいた。例えば室蘭産業会館は、かつて室蘭で結婚式を挙げるならここという定番の大きなホールのある古いビルだった。監督は、このビルの中の理髪店をモデルに映画を構想していたが、ある日、ビルの前を通ったら取り壊しが始まっている。これは急がないと、すてきな建物がすべてなくなってしまう。すぐに観光協会に掛け合って、室蘭を舞台にした映画を撮りたいと相談した。それが2014年の2月のことだ。
「慌ててシナリオを完成させて、5月にクランクインすることにしました。まずは桜のシーンからで、撮影の2日前には満開だったんです。キャスト、スタッフが到着して、さあ撮りましょうと現場に行ったら、花びらが1枚もなかった。前の日の晩に大風が吹いて、散った上に吹き飛んでしまったんです。出演者の大塚寧々さんは、僕のそれまでの作品が何年も待って作っていることを知っていたので、ニコッと笑って『来年でしょ、監督。私はいいわよ』って。でも2018年の10月まで、撮影に4年半もかかるとは思わなかったですね」と坪川監督は苦笑する。
ちなみにタイトルの「モルエラニ」とは、アイヌの言葉で「小さな坂道を下りたところ」という意味で、室蘭の語源の一つとされている。
★咲いて散って、時を重ねていく
作品は、季節ごとに7つの章からなるオムニバス映画だが、それぞれの章に登場する人物や場所が、別の章と微妙に交錯したりすれ違ったりするといった複雑で豊かな表情を見せる。例えば、第1話「冬の章」に出てくる少年の母親(大塚寧々)は、第2話「春の章」では古い写真館の一部屋を借りてキャンドルショップを営んでいる。第1話で室蘭から引っ越す少年の孤独は、最終第7話の「初冬の章」でやはり室蘭を離れる少女の思いにつながっているし、第2話で未返却の写真に写っている蕗子さん(香川京子)は、第7話の樹木医が教師から守ってくれと言われた女性だった。建物や自然の風景を含めて、室蘭が大きな輪で結ばれているようで、その輪の中で人と人とが出会い、別れる。「循環というか、螺旋なんでしょうね」と坪川監督は言う。
「映画に登場する桜の木が象徴しているんですけど、出てくる人も建物も、きっとあの桜の木みたいなものなんです。咲いて散って、咲いて散って、そうやって時を重ねていく。街も一緒で、その街が100年の歴史があれば、いろんな人の100年の記憶が刻み込まれている。それがどんどん壊されてなくなっていくというのは、そうじゃないよって思うんです。別に古いものを全部残せと言っているわけじゃない。街を100年見てきた建物なんだから、もうちょっと敬意を持ってちゃんと送ってあげましょうや、ということです」
撮影開始から7年の間にいなくなってしまったのは、建物だけではない。第2話で写真館の主人を演じる大杉漣は、2018年2月に急逝。映画の完成を見ないままだった。また第3話「夏の章」で病気の妻を介護する夫役として出演している小松政夫は、2020年12月にこの世を去っている。映画にはオーディションで選ばれた地元の市民キャストも数多く出演しているが、そんな1人、第7話で樹木医を演じている佐藤嘉一さんも、すでにこの世にはいない。
「大杉さんは、短い滞在日数だったのに本当にいろんなお店に顔を出していたみたいで、あれ、ここにもサインがある、っていうくらい室蘭に足跡を残している。僕がよく行く喫茶店にもサインがあって、そこのママさんが『サインがほしいけど、画用紙しかない』と言ったら、次の日の朝、大杉さんが自分で色紙を買って、『書き直してきましたよ』と届けにきたそうです。室蘭のことを本当に気に入っていたようですね」
坪川監督にとって忘れられない大杉の言葉がある。大杉が室蘭を去る日、スタッフ、キャストの前で「映画づくりは同じ船にみんなで乗るようなもの」と言って、こう話してくれた。「この映画もきっといつか、すてきな港に着くと思います」
2021年2月6日(土)、岩波ホールという港に着いた「モルエラニの霧の中」は、さらに日本各地の港に向かって航海を続ける。
◆「モルエラニの霧の中」(2020年/日本/214分)
脚本・監督・音楽:坪川拓史 音楽・ペコデルボ=オルケストロ(坪川拓史/窪田健策)
撮影:新宮英生、与那覇政之 照明:新保健次、男澤克幸 美術:新貝伸二、松山亮太、吉田繁 録音:藤川貴広 編集:坪川拓史 衣装・橋場綾子、大城弥寿子、宮本まさ江 メイク:三本雅章、諸橋みゆき スチル:原田直樹 制作:波多野ゆかり、奥村あゆ、宮嶋総士 プロデューサー:松永英樹、浅野博貴、坪川拓史 製作:NPO室蘭映画製作応援団 配給:ティー・アーティスト 配給協力:アークエンタテインメント
出演:大杉漣、大塚寧々、水橋研二、菜葉菜、河合龍之介、中島広稀、咲坂実杏、菅田俊、草野康太、久保田紗友、小松政夫、坂本長利、香川京子
©室蘭映画製作応援団2020
室蘭の街と人の記憶を7つの章でつづった「モルエラニの霧の中」の坪川拓史監督=2020年2月10日、東京都渋谷区(藤井克郎撮影)
室蘭の街と人の記憶を7つの章でつづった「モルエラニの霧の中」の坪川拓史監督=2020年2月10日、東京都渋谷区(藤井克郎撮影)
室蘭の街と人の記憶を7つの章でつづった映画「モルエラニの霧の中」から ©室蘭映画製作応援団
室蘭の街と人の記憶を7つの章でつづった映画「モルエラニの霧の中」から ©室蘭映画製作応援団