第331夜「落下音」マーシャ・シリンスキ監督

 新作映画を見るときは、なるべく事前に情報を仕入れないようにしている。新鮮な感動を味わいたいというのが一番の理由だが、時には何が描かれているのかさっぱり分からないという作品に出くわすことがある。ものすごく革新的で面白そうなんだけど、あまりにも複雑すぎて付いていけない、なんて映画だと、前もってある程度は内容を把握しておけばよかったかなと思ったりもする。そんな場合は何度でも劇場に足を運んで繰り返し見ることができるから、だから映画って素晴らしい、などと言い聞かせて、相変わらず初見のときの心構えは変えないんだけどね。

 昨2025年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞したドイツ映画「落下音」などは、まさにそんなタイプの傑作で、まだ試写会で一度しか見ていないから、果たしてきちんと把握しているかどうかは実に心もとない。とりあえず2時間35分の全編を見終わっての感想としては、構造的にも人間関係もここまで複雑な物語を、テロップやナレーションはおろか説明的なせりふを一切排して織り上げるなんて、これが長編2作目となるマーシャ・シリンスキ監督の胆力と感性に打ちのめされたというのが正直なところだ。

 舞台となっているのは北部ドイツの田園地帯、エルベ川のほとりにたたずむある農場だ。この同じ場所で、封建的な考えが残る1910年代、第二次世界大戦後の1940年代、東西分断の末期に当たる1980年代、そして現代の2020年代と、4つの時代で起きた出来事がアトランダムに描かれる。いや、本当はアトランダムではなく緻密な計算の上に組み立てられているのかもしれないが、時代を追って進行するのではなく、4つの時代がごちゃ混ぜになって行ったり来たりする。それも今がいつの時代なのかは全く示されず、それぞれの登場人物の身なりや会話の端々から、見る側のこちらが推測するしかないというのが、この作品のとてつもないところだ。

 例えば冒頭、片脚で立つ少女が、やはり片方の脚がない男性の寝室に入り込む。エリカ(レア・ドリンダ)という名前らしい少女は、どうやら「フリッツ伯父さん」と呼ぶこの男性に興味があるようなのだが、その後、アルマ(ハンナ・ヘクト)という少女の兄のフリッツが家族によって脚を切断される場面が描かれる。その他の状況から鑑みるに、アルマは1910年代の少女で、エリカは1940年代を生きている。フリッツが同一人物で、アルマの兄であり、エリカの伯父だとしたら、エリカはアルマの娘なのか、とも思えるが、どうもその辺りははっきりしない。一つ一つのエピソードは断片のような形で現れては次々と切り替わる。その繰り返しなのだ。

 こんなんで果たして物語として成立するのか、とも思われるが、4つの時代とも少女たちは非常に生きづらそうで、どこか死の影が漂う。1980年代のアンゲリカ(レーナ・ウルゼンドフスキー)は叔父から好色な目で言い寄られる一方、いとこに当たる彼の息子は彼女に気があるのに強気になれない。そのような何とも鬱屈した閉塞感の中で毎日を過ごしているアンゲリカは、川向こうの自由の国、西ドイツに憧れる。ここで、あ、この農場は冷戦時代、東西ドイツを隔てる国境の東に位置していたんだと分かる。かように、せりふでも映像でも彼女たちの立場や状況がいちいち説明されることはないんだけど、別に気付いても気付かなくても構わない、彼女たちの心の奥深くにある大切なものと比べたら、そんな表層的なものは大したものじゃない、と言っているかのようだ。

 とにかく黒を基調とした画面のそこかしこから漂ってくるのは、家父長制に支配された1910年代から時代を経て、東西の壁がなくなった現代に至っても、女性を縛り付ける見えない壁は厳然として存在するという隠喩だ。どの時代もざらざらとした暗鬱な質感で、時折ピントが合わずにぼやっとした画像が現れるのも共通している。彼女たちの息苦しさ、じれったさが、じわりじわりと伝わってくる。

 さらに輪をかけて、独特の音声が不安な感情を掻き立てるんだよね。ハエの羽音に吹き荒れる風、豚の鳴き声に何だか分からない機械音と、時代の別なく代わる代わる不快な音がこだまする。これらの音は、彼女たちにのしかかる重圧なのか、はたまた彼女たちの心の叫びなのか。邦題の「落下音」は、ドイツ語の原題「In die Sonne schauen」(太陽を見つめて)ではなく、英題の「Sound of Falling」を訳したもののようだが、確かにこの作品の本質を言い当てているような気がする。

 冷戦末期の西ベルリンで生まれ育ったシリンスキ監督は脚本家としての活動後、バーデン=ヴュルテンベルク映画大学で演出について学び直し、3年次の2017年に初の長編を監督。「落下音」が第2作となるが、こんなにも入り組んだ深みのある物語を、こんなにも不親切なままで世に送り出すとは、あまりの研ぎ澄まされた芸術性に打ち震えるしかない。またまた次作が楽しみで仕方のない監督と巡り合った。(藤井克郎)

 2026年4月3日(金)から東京・新宿ピカデリーなど全国で順次公開。

© Fabian Gamper – Studio Zentral

マーシャ・シリンスキ監督のドイツ映画「落下音」から © Fabian Gamper – Studio Zentral

マーシャ・シリンスキ監督のドイツ映画「落下音」から © Fabian Gamper – Studio Zentral