第314夜「TOKYOタクシー」山田洋次監督

 何だかんだで山田洋次監督の撮影現場には結構、足を運んでいる。残念ながら「男はつらいよ」シリーズは一度も取材のチャンスに恵まれなかったが、1996年に逝去した渥美清の追悼の意味を込めて、その年末に急遽公開された「虹をつかむ男」(1996年)では、11月に徳島県の元映画館の建物で行われたロケに赴いて、主演の西田敏行による寅さんばりの長広舌を目の当たりにしている。その前の5月には「学校Ⅱ」(1996年)で北海道雨竜町のロケ現場を訪れているし、2014年10月には東京・成城の東宝スタジオで撮影中だった「家族はつらいよ」(2016年)の現場に2度もお邪魔して、山田監督が根気強く演出をつける過程をつぶさに見せてもらった。

 特に「家族はつらいよ」のときはすでに80歳を超えていたが、インターンシップで初めて参加した若い人たちへも気軽に声を掛けるなど、現場の雰囲気作りへの細やかな気配りがとても印象に残っている。かと思うと、いざ本番が始まれば役者に対して何度も何度も駄目出しを繰り返すなど、決して妥協することはない。この緩急の付け方が日本映画の至宝たるゆえんなんだろうな、と大いに納得したものだ。

 それから10年がたって、よわい90を超えた今もなお、山田監督の創作意欲は衰えない。今度はおなじみの倍賞千恵子と木村拓哉を主演に迎え、戦後80年と松竹創業130周年を記念した心温まる、でも戦後日本の歴史を厳しく問いただすかのような深みのある「TOKYOタクシー」を世に送り出した。

 原作は2023年に日本でも公開されたフランス映画「パリタクシー」(2022年、クリスチャン・カリオン監督)で、設定とおおまかなストーリーはそのままに、舞台をパリから東京に置き換えてリメイクしている。個人タクシーの運転手、浩二(木村拓哉)は、音楽大学の付属高校に推薦が決まった娘(中島瑠菜)の入学金や車検代など出費を控え、妻(優香)の実家を処分すべきかどうか、頭を悩ませていた。そんなある日、東京の柴又から神奈川県の葉山町まで乗客を送るという大口の依頼が舞い込む。待ち合わせ場所の帝釈天の門前にタクシーを着けると、乗り込んできたのは御年85歳の女性、すみれ(倍賞千恵子)だった。

 不愛想でぶっきらぼうな浩二に対して、高齢者施設に入居するというすみれは、東京の見納めにと思い出の地を回るように注文する。こうしてタクシーに乗って東京中を巡りながら、2人の会話ですみれの数奇な人生をたどるというのが物語の大筋だ。

 原作のフランス版との一番の違いは、彼女の人生が戦中、戦後の日本が歩んできた歴史のうねりを如実に反映している点だ。最初に向かったのは隅田川に架かる言問橋で、戦時中、まだ幼かったすみれが空襲から逃げる途中、父親とはぐれてしまった場所だった。さらに戦後、在日朝鮮人の青年と恋に落ちるが、恋人は北朝鮮への帰還事業ですみれを置いて渡航。妊娠中だった彼女は、一粒種の息子を一人で育てることになる。

 これら社会のうねりを、東京大空襲はイラストを活用し、北朝鮮への渡航は当時のニュース映像を駆使するなど、山田監督はさまざまな創意工夫を凝らして表現する。さらにタクシー内の2人の会話に重ねる形で、若かりし頃のすみれ(蒼井優)が経験した壮絶な人生が活写される。

 この現在と過去を交錯させる手法は原作のフランス版と同じだが、山田監督は回想場面をくすんだ色味に小津安二郎張りのローアングルで捉え、決して幸せだったとは言えないすみれの人生と戦後日本が歩んできた時代性をシンクロさせる。中でも強調されるのが家父長制に支配された男尊女卑の視点で、これでもかとばかりにそのゆがんだ思考を見せつける。現在のすみれに「決して悪いだけの時代ではなかったのよ」と語らせてはいるものの、絶対に歴史を後戻りさせてはいけないという山田監督の強い意志が伝わってくる。

 一方で、今日の日本社会がバラ色かというとそういうわけでもなく、人情味が薄れていることへの嘆きなどが、高齢者施設の対応などからちらちらと見て取れる。昔と比べてだいぶましな世の中になったかもしれないけれど、油断をしているとすぐにまたひどい社会になってしまうかもしれないよ。そうならないためにも、世代や立場が違うからと言って対話を諦めるのではなく、浩二とすみれのように無理にでも言葉を交わせば、いつしか心が通じ合えるんじゃないか。そんな願いがスクリーンの端々から漂ってくるような気がした。

 ますます意気軒高な山田監督の姿勢に触れ、今後もまだまだ意欲的な新作に出合うことができるに違いない。そう確信するとともに、早くも次回作が待ち遠しくなった。(藤井克郎)

 2025年11月21日(金)、全国公開。

©2025映画「TOKYOタクシー」製作委員会

山田洋次監督「TOKYOタクシー」から。タクシー運転手の浩二(左、木村拓哉)は、客のすみれ(倍賞千恵子)の昔語りを聞くうちに…… ©2025映画「TOKYOタクシー」製作委員会

山田洋次監督「TOKYOタクシー」から。タクシー運転手の浩二(左、木村拓哉)は、客のすみれ(倍賞千恵子)の昔語りを聞くうちに…… ©2025映画「TOKYOタクシー」製作委員会