第312夜「旅と日々」三宅唱監督
漫画は詳しい方ではないし、映画化された作品も原作の漫画を意識したことはほとんどないんだけど、つげ義春は別格というか、まず何よりも原作者の名前が先に出てくるほど、どれも強いインパクトを与えている気がする。ざっと思い浮かべただけでも、「無能の人」(1991年、竹中直人監督)、「ゲンセンカン主人」(1993年、石井輝男監督)、「ねじ式」(1998年、石井輝男監督)、「リアリズムの宿」(2003年、山下敦弘監督)、「雨の中の慾情」(2024年、片山慎三監督)と、それぞれの監督がつげワールドに心底ほれ込んで、嬉々として映画化に挑んでいるという印象だ。
今度は「ケイコ 目を澄ませて」(2022年)、「夜明けのすべて」(2024年)など、このところ必見の傑作を連発している三宅唱監督が、その魅力の伝道師になった。新作の「旅と日々」は、1967年に発表された「海辺の叙景」と1968年の「ほんやら洞のべんさん」という2本のつげ作品を基に映画化された作品だが、やはり独特のちょっと浮世離れした空気感を漂わせつつ、三宅監督の研ぎ澄まされた映像センスも相まって、えも言われぬすてきな世界を構築していた。
ほとんど人けのない夏の海。海岸でぼんやりと過ごしていた夏男(髙田万作)の前に、どこか気だるそうな若い女性の渚(河合優実)が現れる。何気ない会話を交わして浜辺を散策した2人は、翌日もここで顔を合わせるが、時あたかも台風が近づきつつあった。
と、ここまではいわゆる劇中劇の短編映画で、大学の講義の一環として大教室で上映されていたのだ。この短編は、つげ義春の漫画「海辺の叙景」を原作に李(シム・ウンギョン)が脚本を手がけたという設定になっており、上映後にはティーチインが開かれて、彼女が学生の質問に答えるという場面が展開される。うまく答えられなかった李を見て、担当の魚沼教授(佐野史郎)は優しく声を掛ける。「気晴らしに旅行にでも行くといいですよ」と。
ここからは「ほんやら洞のべんさん」を原作とする物語に入っていくのだが、この序盤のメタ構造が実に鮮烈で、わくわくを通り越してどきどきと高揚感を覚えるほどだ。ホテルを予約することなく雪深い北国を訪ねた李は、宿泊場所を探して雪原をさまよった揚げ句、1軒の古い宿にたどり着く。やっているのかどうかも分からないその宿には、やる気のない主人のべん造(堤真一)が1人いて、何のサービスもしてくれない。こうして今度は李の旅の風景が繰り広げられる。
どちらも余計な説明的せりふがないので、その状況や背景については見る側が勝手に推し量るしかない。映像に関しては本当に情報量が少なく、嵐の海岸では波しぶきが砕け散り、冬の山々はしんしんと雪が降り積もる。これらぶっきらぼうな旅の断片に時折、李を演じるシム・ウンギョンのナレーションがかぶさるが、これも決して心情を語りはしない。「旅は言葉から離れること」といった概念的なものばかりで、ますます想像の翼が広がっていく。2つの物語は交わることはないが、どちらも旅の本質を突いているというのも心憎い。
かと言って、別に難解な映画というのとは違う。「海辺の叙景」には思春期特有の何ともむずがゆい、きゅんとした切なさが漂うし、「ほんやら洞のべんさん」の方は、ずぼらだけど大胆なべん造の行為にくすりとさせられること請け合いだ。娯楽の要素はたっぷりで飽きさせることはないし、シム・ウンギョンをはじめ、河合優実や堤真一といった芸達者の存在そのものが、なぜか分からないけど真に胸に迫ってくるんだよね。これぞ映画、といった演技の神髄を存分に見せつけられた感が強い。
それに映像がまた、とてつもなくすさまじい。嵐の中の海中撮影なんて、本当によくぞここまでと感心するほどだし、それを大学でのティーチインの場面で、映画の感想を求められた李に「撮影が大変そうだなと思いました」と語らせる。いやいや、またまたとんでもないメタ表現だ。頻繁に描かれる暗闇なんて、ほとんど何が映っているのか分からないようなショットもあるし、河合優実が火をつけたたばこの光だけで映し出すに至っては、まあ何という離れ業だとあっけに取られた。
三宅監督には2018年7月、「きみの鳥はうたえる」(2018年)の公開前にインタビュー取材をしたことがあるが、「映画にする以上、映画でしかできないことをやりたい」と話していた。「文章の方が正しく伝えられるなら文章にすべきだし、これだけいい映画が世の中にあって、わざわざ映画なんてもう作らなくてもいいんじゃないかと思うときもある。でもどうしても映画にする必要があるものだけは映画にしたい」と意欲を口にしていた。
つげ義春が漫画という表現手段で世に出した2作品を、まさに映画でなければできない方法で1本の作品として完成させた「旅と日々」は、映画館の大きなスクリーンでなければ絶対に味わえない映画の醍醐味が至る所に見受けられる。この貴重な機会を、どうか見逃すことのなきように。(藤井克郎)
2025年11月7日(金)、TOHOシネマズ シャンテ、テアトル新宿など全国で公開。
© 2025『旅と日々』製作委員会

三宅唱監督「旅と日々」から。脚本家の李(右、シム・ウンギョン)は、雪深い北国でべん造(堤真一)の古びた宿に泊まる © 2025『旅と日々』製作委員会

三宅唱監督「旅と日々」から。台風が近づく海岸で、夏男(左、髙田万作)は渚(河合優実)と出会う © 2025『旅と日々』製作委員会

