第300夜「アイム・スティル・ヒア」ウォルター・サレス監督
今年2025年のアカデミー賞で話題を呼んだ作品は、もうあらかた出そろった感があったが、どっこい、真打ちが残っていた。国際長編映画賞を受賞したほか、作品賞と主演女優賞にもノミネートされた「アイム・スティル・ヒア」は、ブラジルの名匠、ウォルター・サレス監督が実話を基に映画化した力強い作品で、鋭い社会性に加えて、妻として母として家族を守り抜く一人の女性に焦点を当てた愛の物語にもなっている。
1970年、軍事独裁政権下のブラジル。元国会議員のルーベンス・パイヴァ(セルトン・メロ)は、妻のエウニセ(フェルナンダ・トーレス)に4女1男の子どもたちとともに穏やかな日々を送っていた。だが軍の横暴は徐々に市民生活にも影響を及ぼすようになり、ルーベンスはある日突然、軍に連行される。
なかなか帰ってこない夫の身を案じて必死になって消息を尋ねるエウニセだったが、彼女もまた当局に拘束され、執拗な尋問を受ける。12日後にようやく釈放されるも、夫の行方はようとして知れない。まだ年端も行かない末っ子から多感な思春期の次女に、遠くイギリスに避難させていた長女と、性格も年齢もばらばらの5人の子を守るべく、エウニセの戦いが始まる。
何よりエウニセを演じたフェルナンダ・トーレスの、まさに実在のエウニセを生きているとしか思えないなりきりぶりに圧倒される。本当なら自分が一番不安で、何かにすがりたくて仕方がないはずなのに、居丈高な軍の男どもにも毅然として言うべきことを言い、一方で子どもたちの恐怖を取り除こうと時に気丈に、時に優しく振る舞う。まだ小さい下の3人には真実を告げることはせず、でも一人一人ときっちり向き合い、怒りも悲しみも共有する。極限の異常事態の中でなかなかこうは振る舞えないだろうが、トーレスの自然な演技が説得力を抱かせるし、アカデミー賞主演女優賞ノミネートも、けだし納得だ。
子どもたちも不安にさいなまれる様子をごく自然に表現しているが、何よりもその感情を巧みに引き出しているサレス監督の手腕に負うところが大きい。どこかドキュメンタリー風の粗っぽい映像は、このパイヴァ一家に起きている出来事をのぞき見しているような感じでもあり、しかも父親のルーベンスがいたころの幸せな時間をさんざんにぎやかに描いているから、余計に父親不在の家族の情景が悲しく、ぐっと胸に迫ってくる。
サレス監督と言えば、ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞に輝いた「セントラル・ステーション」(1998年)で一躍、世界に名を馳せたが、実はあの名作の誕生には日本が大きく関わっていた。1996年、映画誕生100年を記念して、NHKなどがアメリカのサンダンス・インスティテュートと共同で「シネマ100・サンダンス国際賞」を実施。若手監督が映画製作を実現する支援を目的に、脚本の内容と監督の資質などから判断して賞を与えるというもので、ラテンアメリカ部門で選出された企画が「セントラル・ステーション」だった。
このとき、NHK側の担当プロデューサーに取材をしているが、「セントラル・ステーション」の快挙をわがことのように喜んでいたのを思い出す。ちなみにあの作品で主役の代筆業の女性を演じていたフェルナンダ・モンテネグロは、ベルリン国際映画祭の銀熊賞(女優賞)を受賞したほか、アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされたが、彼女は今回の「アイム・スティル・ヒア」でアカデミー賞にノミネートされたトーレスの母に当たる。1929年生まれとかなりの高齢ながら今回も意外な役で出演していて、母娘のオスカーノミニーの共演も話題になっている。
「アイム・スティル・ヒア」では、家族の姿を収めた8ミリフィルムの映像も実に印象的に使われているが、そこに刻み込まれた一人一人のこぼれんばかりの笑顔と、同じ子どもたちの恐怖に引きつった表情を対比させて立体的に構築する演出は、さすがとしか言いようがない。それほど多作とは言えないサレス監督だが、決して見逃すことのできない映画作家であることは確かだ。(藤井克郎)
2025年8月8日(金)から、東京・新宿武蔵野館など全国で順次公開。
©2024 VideoFilmes/RT Features/Globoplay/Conspiração/MACT Productions/ARTE France Cinéma

ウォルター・サレス監督のブラジル、フランス合作「アイム・スティル・ヒア」から。エウニセ(右、フェルナンダ・トーレス)は、優しい夫のルーベンス(セルトン・メロ)と子どもたちと幸せな日々を送っていたが…… ©2024 VideoFilmes/RT Features/Globoplay/Conspiração/MACT Productions/ARTE France Cinéma

ウォルター・サレス監督のブラジル、フランス合作「アイム・スティル・ヒア」から。夫不在の中、エウニセ(フェルナンダ・トーレス)の家族を守る決死の戦いが始まる ©2024 VideoFilmes/RT Features/Globoplay/Conspiração/MACT Productions/ARTE France Cinéma