第294夜「ルノワール」早川千絵監督
ときどき、なぜだかよくわからないけれどとにかく感動した、という映画に出くわすことがある。後で振り返ると、ストーリーが特段に面白かったり、見たこともないような映像の連続だったり、というわけでもなく、こうやって文章にしようと思うとその感動具合がうまく伝えられなくて無力感にさいなまれたりもする。でもだからこそ映画であって、あまたの表現者が映画でしか描けないものを追い求め続けているのもそこなんじゃないかなという気がする。
早川千絵監督の「ルノワール」は、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されたという付随情報とは関係なく、ぜひとも見ておくべき映画だと断言して間違いない。むしろそういう作品だからカンヌに選出されたわけだし、さすがは世界最高峰の映画祭と言われるだけのことはあると感じ入った。
時代背景はバブル景気に浮かれつつあった1980年代後半で、地方都市に両親と暮らす11歳の少女が主人公だ。その夏、フキ(鈴木唯)は家事と仕事に追われる母(石田ひかり)に代わって、闘病中の父(リリー・フランキー)が入院する病院に通う日々を過ごしていた。超能力などのオカルトに興味を示すフキは、父親相手にトランプを使ってテレパシーの練習をし、マンションのベランダからじっと下を見つめていた若い女性(河合優実)に催眠術のまね事をしたりする。怪しげな勧誘商法の男(中島歩)には警戒感を抱く一方、伝言ダイヤルで知り合った自称大学生の薫(坂東龍汰)とは会う約束をして……。
とまあ、思春期に差しかかった少女の不安定な心の襞が紡がれるのだが、その描写は決して丁寧でも緻密でもなく、どこかぶっきらぼうで突き放したような感じもする。場面が切り替わるいわゆるカット尻は余韻を残すことなくぶちっとぶった切られるし、自然光を生かした撮影は全体に薄暗く、フキの表情も逆光気味ではっきりとはわからない。
それなのになぜか彼女の心模様が痛いほど伝わってくる。早川監督の演出の妙なのだろうが、その高度な映像表現に応えたフキ役の鈴木唯に追うところも大きい。オカルトにはまりながらもどこか冷めた目で自分を見つめている二面性を、不自然さを感じさせることなく体現し、もうそこにいるだけで何かとてつもない存在感を醸し出す。薄暗い光の下で決して鮮明ではないはずなのに、その表情の豊かさは絶妙な塩梅であることがわかるし、フキが本当に不思議な力を持っているかのような暗示を全身から漂わせる。
薫の家を訪ねる場面も、本来ならもっと禍々しくて不安感に包まれるはずなのに、なぜかそうとは映らない。人間というよりも、あらゆる生き物が成長過程に有している根源的な生命力といったものを、計算ずくではなく提示しているようで、とんでもない逸材の誕生の瞬間を目にしているのではないか、と思わず興奮を覚えた。
その可能性を引き出しているのが早川監督の描写力であることは論をまたない。父や母をはじめとしたフキと絡んでくる人物はどこかちょっと違和感のあるずれを有していて、でもそんな一癖も二癖もある違和感人間がフキの前だとなぜか見透かされたようになる。恐らく映画を見ているわれわれも含め、すべての人間には何らかのずれがあり、こうやって11歳の純粋な目を通してそのずれが映し出されることで、改めてはっとさせられるということなのかもしれない。冒頭など作中、世界中の子どもたちが泣いている画質の悪いビデオ動画が挿入されるのも同様で、早川監督の無限に広がる感性に圧倒されたというのが正直な感想だ。
タイトルの「ルノワール」とは、フランスの印象派の画家、ピエール=オーギュスト・ルノワールのことで、その代表作とも言えるある有名な少女の絵が映画の中にさりげなく登場する。この絵は以前から大のお気に入りで、映った瞬間、あ、と声が出そうになった。ますますこの映画がいとおしく感じたし、ルノワールの絵画のように折に触れてたびたび鑑賞したいという思いが募っている。(藤井克郎)
2025年6月20日(金)、東京・新宿ピカデリーなど全国で公開。
© 2025「RENOIR」製作委員会 / International Partners

日本、フランス、シンガポール、フィリピン、インドネシア、カタール合作の早川千絵監督「ルノワール」から。11歳のフキ(鈴木唯)の不安定なひと夏が紡がれる © 2025「RENOIR」製作委員会 / International Partners

日本、フランス、シンガポール、フィリピン、インドネシア、カタール合作の早川千絵監督「ルノワール」から。11歳のフキ(鈴木唯)の不安定なひと夏が紡がれる © 2025「RENOIR」製作委員会 / International Partners