第281夜「いきもののきろく」井上淳一監督
第97回アカデミー賞は、前回この欄で取り上げた「ANORA アノーラ」(ショーン・ベイカー監督)が、作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞、編集賞の5部門を制するという意外な結果に終わった。意外というのは、決してアカデミー賞にふさわしくないという意味ではなく、ほかにも見応えのある作品がそろっていて混戦になるんじゃないかなと予想していたからだ。自主映画の「ANORA アノーラ」は、監督だけでなく脚本も製作も編集もベイカー監督が手がけていて、そのいずれでも受賞したことになる。ちょっと独り占めすぎるんじゃない、という気がしないでもない。
ただ授賞式でのベイカー監督のスピーチは、大いに感銘を受けた。とりわけ監督賞のときの映画館に触れた発言はめちゃくちゃ心に響いた。いわく「映画館でほかの観客と一緒に映画を見ることはかけがえのない体験です。ともに笑い、泣き、叫び、怒り、または絶望の中、沈黙のままでいることもある。世界が分断されていると感じる今だからこそ、その体験はより重要になっています。しかし今、映画館体験は脅かされている。パンデミックの間にアメリカでは1000ものスクリーンが失われました。今後もどんどん減り続けるでしょう。この流れに歯止めをかけなければ、私たちの大切な文化の一部が失われてしまいます。これは私の闘いの叫びです。映画の作り手のみなさん、映画をスクリーンのために作り続けましょう。私はそうします。そしてすべての方々へ、できる限り映画館で映画を見てください。映画館で映画を見るという素晴らしい伝統を守りましょう」と。
井上淳一監督の「いきもののきろく」の劇場公開は、まさにベイカー監督の言う「闘いの叫び」を見事に体現した出来事かもしれない。映画が作られたのは10年以上も前の2014年のこと。名古屋にあるミニシアター、シネマスコーレの企画によるものだったが、当時は同館以外の映画館では公開されることがなく、知る人ぞ知る幻の作品として時が過ぎた。
理由は尺の短さによるところが大きい。「いきもののきろく」は47分の中編で、当時はこういった作品を上映する環境が整ってはいなかった。だが昨年、58分のアニメーション映画「ルックバック」(押山清高監督)や45分の不条理サスペンス「Chime」(黒沢清監督)などのヒットで状況が変化。満を持して「いきもののきろく」の全国公開が実現することになった。
作品自体も、ほぼ全編モノクロ画面で、会話も字幕で表示する無声映画と、極めて個性が強い。よどんだ運河のさらに奥まったよどみに流れ着いてくる廃材やガラクタを集めている男(永瀬正敏)がいた。廃工場に運んでいかだを組み立てようとしている男に、ふらっと現れた女(ミズモトカナコ)が声をかける。「私のいかだも作ってよ」
ほとんど2人だけの出演で、寡黙なまま別々にいかだを組み立てる姿を中心に、彼らの過去や思いがフラッシュバックのように差し挟まれる。制作時期からも2011年3月11日の東日本大震災を受けているのは明らかで、福島第一原発事故の影響による放射能汚染への不安が色濃く反映されている。タイトルも、原爆実験による放射能の恐怖をモチーフにした黒澤明監督の「生きものの記録」(1955年)にオマージュを捧げていることが見て取れるし、さらには女が過去、病院に勤務していたり、さまざまな宣言文が書かれた垂れ幕が下がっていたり、その後のコロナ禍における同調圧力やウクライナやガザでの悲劇を予見させるような描写もある。ちっとも色あせないどころか、10年たった今こそ見るべき作品と言えるのではないか。
もともと井上監督の「戦争と一人の女」(2012年)に出演した永瀬正敏が、監督と一緒に舞台挨拶でシネマスコーレを訪れたときに依頼を受けた企画で、永瀬のプロットを基に井上監督が脚本化。今ではガラクタと化したものを、水上での住まいであるいかだに仕立てて、「みんな生活していたもの」とつぶやかせる。そのせりふを声で発さずに字幕にしたのも、この特定の2人ではなく、もっと普遍的な人間と人間とのふれあい、交わりを描きたかったからだろうし、直接、津波の被害を受けてはいなくても、「みんな」が何かを失い、「みんな」が悲しみを背負っている。
ラスト、運河を進むいかだの場面。「みんな」の字幕に次いで表現されるせりふがあまりにも強烈で、思わず全身が打ち震えた。わずか47分の無声映画でもこんなにも多弁だし、いくらでも想像の翼を広げさせてくれる。確かにこの体験は唯一無二の大切な文化で、映画館でなければ得られないものに違いない。(藤井克郎)
2025年3月7日(金)から東京・テアトル新宿など全国で順次公開。
©シネマスコーレ・ドッグシュガー

井上淳一監督「いきもののきろく」から。廃工場で出会った男(左、永瀬正敏)と女(ミズモトカナコ)は…… ©シネマスコーレ・ドッグシュガー

井上淳一監督「いきもののきろく」から。男(永瀬正敏)はガラクタでいかだを作ろうとする ©シネマスコーレ・ドッグシュガー