第260夜「箱男」石井岳龍監督

 安部公房は高校生のころ、ほんのちらっとだけかじったことがある。なぜか演劇作品に興味を持った時期があり、別役実や清水邦夫などとともに「幽霊はここにいる」「棒になった男」といったちょっと不条理な安部戯曲を楽しく読みふけった記憶がある。

 図に乗って小説にも手を出そうとして購入したのが、クラスメートの間で話題を呼んでいた「箱男」の単行本だったが、ここで挫折と相なった。最後まで読んだのかどうかもはっきり覚えていないくらいで、とにかくまるで訳が分からなかったというのが正直な感想だ。以降、安部作品とはすっかり疎遠になっている。

 1973年に発表されたこの問題作を映画にしようとしたのが、石井聰亙、現在の石井岳龍監督だ。原作者本人から直接、映画化を託されたそうで、1997年に製作が決定。ドイツのハンブルクでの撮影も決まり、スタッフ、キャストが集結して撮影に入ろうとしたその前日、突如企画が頓挫して、失意の中で帰国することになったという。

 何があったのか部外者としては知る由もないが、石井監督は決して諦めはしなかった。安部公房の生誕100周年となる2024年、27年前と同じ永瀬正敏の主演でこの超難解な原作に挑み、映画的にも度肝を抜かれるような見応えのある作品に織り上げたのだ。

 カメラマンのわたし(永瀬正敏)は、街で見かけた箱男に心を奪われ、自分もダンボール箱をすっぽりとかぶり、目の位置にのぞき窓を開けただけの箱男になる。箱男を狙う連中から空気銃で撃たれるなど数々の試練を潜り抜けたわたしは、やがて箱男の存在を乗っ取ろうとする贋医者(浅野忠信)と出会う。果たして本物の箱男はわたしなのか、彼なのか。贋医者の下で看護婦をしているらしい葉子(白本彩奈)や、箱男を利用しようと企む軍医(佐藤浩市)も絡んで、エロス=生とタナトス=死の相克が炸裂する。

 と、ストーリーらしきものを書いてはみたけれど、原作同様、意味を求める映画には決してなっていない。冒頭、原作が書かれた1973年の世相を乾いたナレーションで切ったモノクロの映像が流れるものの、それほど社会性を込めているとも思えない。原作の設定と前衛性を取り込みながら、石井監督が抱く「箱男」のイメージを、想像の翼を広げて自由奔放につづったという印象だ。

 中でも際立っているのはエロティシズムとアクションだろう。今回、映画を試写会で見た後、改めて原作の小説を読み返してみたのだが、構成も文体も斬新過ぎて、具体的な情景は思い浮かべにくい。もちろんエロティックな描写もあるんだけど、意味ありげな凝った言語表現が並んでいて、躍動感や高揚感はあまり感じられない。

 これを石井監督は、疾走感あふれる性と生のぶつかり合いで見せていく。ダンボールの穴からのぞき見る病院の怪しげな密室や女性のなまめかしい肌などが、古色蒼然としたくすんだ色合いで幻想的に描き出される。その一種異様な空気感の中、2人の箱男が繰り広げる肉弾戦がまたすさまじく、演じた永瀬正敏と浅野忠信の役者魂には目を見張るばかりだ。ダンボールの中という不自由な空間で、よくぞあそこまで動き回れるものだと、運動能力も含めてその表現力には感動を覚える。

 1957年生まれの石井監督は、もう老境に入ったと言ってもいい年齢だが、チャレンジ精神といい、映像の作り込みといい、デビュー当初の「爆裂都市 BURST CITY」(1982年)や「逆噴射家族」(1984年)で見せためちゃくちゃな勢いは全く衰えていない。念願の映画化が実現した喜びと、まだまだ枯れるわけにはいかないという気概が、画面の隅々からひしひしと伝わってくる。

 石井監督には何度か取材でお目にかかっているが、最初にインタビューしたのは1997年の1月、「ユメノ銀河」(1997年)の公開前だった。このときは夢野久作の短編の映画化で、制作会社からの持ち込み企画だったが、「自分流にアレンジして、もっと面白い作り方ができるはずだと思ってやっている」と意気込みを口にしていた。

 映画が好きな大きな理由は臨場感があることで、「アクションも恋愛もお客さんをのめり込ませたい。全身で見てほしい」とも言っていたが、ちょうどこの年に「箱男」の企画が動き出したわけだ。当時、新作を6月ごろに予定していて、「スピード感のある作品が撮れるんじゃないか。機は熟したと思う」と話していたが、これが「箱男」だとしたら、確かに27年を費やして機はもう十分過ぎるほど熟したと言っていい。いよいよわれわれ観客の側が、全身全霊で作品を受け止める番がやってきた。

 ところで全くの余談だが、安部公房というと思い出す出来事がある。1985年に夕刊フジに入社して間もなくのころ、安部公房のインタビュー記事が1面トップで掲載された。しかも文学の話ではなく、雪道を走る画期的なタイヤチェーンを発明したという内容で、山口組対一和会の抗争や豊田商事の悪徳商法など、切った張ったのニュースが連日、紙面を大きく飾っていた中、何たる大胆で牧歌的な記事かと、自分で書いたわけでもないのに誇らしく思ったものだ。母校ならぬ母紙とは縁遠くなってしまったけれど、「箱男」の公開で2024年が安部公房の生誕100周年と知り、ちょっぴり懐かしい気分にさせられた。(藤井克郎)

 2024年8月23日(金)、東京・新宿ピカデリーなど全国で公開。

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石井岳龍監督「箱男」から。ダンボールをすっぽりかぶった箱男とは何者なのか ©2024 The Box Man Film Partners

石井岳龍監督「箱男」から。箱男になったわたし(永瀬正敏)は…… ©2024 The Box Man Film Partners