第184夜「ケイコ 目を澄ませて」三宅唱監督
長く映画を見ている楽しみの一つに、俳優の成長ぶりを目の当たりにするということがある。脇役だけどどこかきらっと光るものがあって、何となく心に引っかかっていた人がどんどん主役級になっていくのを見るのは、別に自分が発掘したわけでもないんだけど、何だか妙にうれしいんだよね。
今や映画にテレビドラマに引っ張りだこの岸井ゆきのを初めて意識したのは「森山中教習所」(2016年、豊島圭介監督)だった。それまでもいろんな映画でちらちら見かけた顔ではあったけど、この作品ではそんなに出番はないのに、主役の野村周平と賀来賢人を凌駕するくらいインパクトが大きかった。インタビュー取材をした豊島監督も「普通だったらないけれど、これは岸井さんの顔で始める映画だと思った」と語るなど、個性あふれる存在感にほれ込んでいた印象だった。
その後、「おじいちゃん、死んじゃったって。」(2017年、森ガキ侑大監督)で映画初主演。森ガキ監督にインタビューしたとき、隣の部屋で別の取材に応じていてニアミスだったんだけど、今となっては挨拶くらいしておけばよかったな、とちょっと悔やまれる。
ってことで、それからの人気はご存じの通りだが、この「ケイコ 目を澄ませて」ではまたまた新境地を切り開いたというか、ここまですごい俳優とは、と改めて恐れ入った次第だ。
岸井が演じるケイコは生まれつきの聴覚障害で耳が聞こえず、ホテルでハウスキーピングの仕事をしながら、ボクシングジムに通って黙々とトレーニングをこなしている。試合に出てもセコンドの声が届かず、孤独な戦いを強いられているが、そんなとき、会長(三浦友和)からジムの閉鎖を伝えられる。
実際に耳が聞こえないハンディを克服してプロボクサーになった小笠原恵子さんが2011年に出版した著書を原案に、「きみの鳥はうたえる」(2018年)の三宅唱監督が脚本化。時代を新型コロナウイルスが蔓延する2020年の暮れから翌2021年の春に設定し、社会の閉塞感とケイコのいら立ちを重ね合わせる形で奥深い人間ドラマを構築した。
ケイコは手話のできない人とは唇の動きを読んでコミュニケーションを取るが、コロナ禍でみんながマスクを着けている状態では口元が見えない。夜の河原でトレーニング中、2人の警察官に職務質問を受けたときも、彼らが何を言っているのか全く理解できない。想像力の欠如した警察官はマスクを外さないまま話し続け、ケイコへの不信感を募らせるのだが、恐らく同じような経験をした人はいっぱいいるに違いない。コロナ禍で露呈したこの国の冷たさを象徴する場面だ。
ジムの会長やトレーナー、同居の弟、ホテルの同僚といった近しい人々はケイコに気を配ってくれるものの、共感まではできない。こうして孤立感を募らせていくケイコを、岸井が全くせりふのない中、めちゃくちゃリアルに演じきっている。
何しろボクサーの役というだけでも大変だろうに、手話をマスターし、表情だけで喜怒哀楽を表現し、というのは相当な努力が必要だろう。肉体はかなりのトレーニングを積んだと思われる絞り方だし、試合の場面では壮絶な打ち合いをしている。アカデミー賞で作品賞などを受賞した「コーダ あいのうた」(2021年、シアン・ヘダー監督)のように、障害者の役は実際に障害のある俳優陣が演じるという傾向にあるが、もともと感性が豊かな役者が、ここまで徹底的に役を理解し、準備にじっくりと時間をかけ、しかもとことんまで体を鍛え上げて撮影に臨むことでもたらす感動というものは、紛れもなく本物だ。
それにしても岸井本人の見事さはもちろんだが、三宅監督の役者の魅力を引き出す巧みさも特筆に値する。「きみの鳥はうたえる」では、柄本佑、染谷将太、石橋静河の主役3人の関係性を表すきらきらと輝く表情が鮮烈だったし、山口情報芸術センターの企画で作られた「ワイルドツアー」(2019年)では、ワークショップに集まった地元の中学生たちがどきどきするような恋愛模様を織りなしていて、驚くほどときめいた。
三宅監督には「きみの鳥はうたえる」のときにインタビューをしているが、「映画を撮影するというのは、その人のことが好きになる方法の一つだと思っている。好きなところを改めて発見して、好きなところを記録していくのが映画であり、それをみんなで共有しようよっていう感じです」と話していた。
「ケイコ 目を澄ませて」では間違いなく、ケイコのことが好きになった。三宅監督と岸井が作り上げた映画の神髄を、まさに共有できたような気がした。(藤井克郎)
2022年12月16日(金)、テアトル新宿など全国で公開。
©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
三宅唱監督作品「ケイコ 目を澄ませて」から。耳の聞こえないボクサーのケイコ(岸井ゆきの)は黙々とトレーニングをこなす ©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
三宅唱監督作品「ケイコ 目を澄ませて」から。ジムの会長(左、三浦友和)もケイコ(岸井ゆきの)の才能を認めるが…… ©2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS