第157夜 「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」ヴェルナー・ヘルツォーク監督

 新型コロナウイルスはわれわれの生活からいろんな日常、非日常を奪ったが、そんな一つに旅がある。もともとそれほど旅行好きというわけではなかったものの、国内では47都道府県のうち46、海外でも20の国と地域を訪れていて、まあそこそこ出歩いている方ではないかなと思っているが、2020年以降は東京都と神奈川県以外は全く出掛けていない。北は荒川、東は江戸川さえ越えていないというのが正直なところだ。

 そんな中で、もはや非日常空間でもある映画館の暗闇に包まれて旅情を味わうというのは、最高の気晴らしと言えるかもしれない。「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」は、イギリスの作家で旅行家だったブルース・チャトウィンが足を踏み入れた世界のさまざまな場所を、生前のチャトウィンと親交のあったドイツ出身の巨匠、ヴェルナー・ヘルツォーク監督が訪ね、旅とともに生きた早世の作家が見つめた地球の表情や彼が伝えたかったものを追体験するというドキュメンタリー作品だ。

 チャトウィンという作家のことは、恥ずかしながらまるで知らなかったが、1989年に48歳で死去するまで5作の小説を発表している。もともと人類学や考古学、ジャーナリズムの分野で活躍し、1978年に南米を旅した経験を基に書き上げた「パタゴニア」で小説デビューを果たす。2歳年下のヘルツォーク監督とは1983年に出会って意気投合。2冊目の小説「ウイダーの副王」は「コブラ・ヴェルデ」(1987年)としてヘルツォーク監督が映画化しているし、死後に監督した「彼方へ」(1991年)ではチャトウィンの遺品のリュックサックを作品内で使用するなど、終生の友に対する畏敬の念は監督の中でずっと生き続けている。

 この新作ドキュメンタリーを見ると、そんなヘルツォーク監督の特別な思いが強くにじみ出ていて、心にずしりと響いてくる。収められている風景は、南米パタゴニアにオーストラリアの中央部、そしてチャトウィンが生まれ育ったイングランドの片田舎など、いずれも驚くほど美しく、怖いくらいに厳しい。それらの映像にヘルツォーク監督のナレーションやチャトウィン自身が生前に録音していた朗読の音声がかぶさり、さらにチャトウィンの妻ら知己の人々や研究者らの証言が加わる。チャトウィンの作品について知らなくても、彼が地球の歴史や人類の変遷について深い関心を寄せていたことはひしひしと伝わってくるし、それらを今日の情景とともに作品としてとどめることは、まさに映画が果たすべき大切な文化行為と言えるだろう。

 特に感慨深いのが、オーストラリアの先住民族、アボリジニのソングラインに関する考察だ。チャトウィンの4冊目の小説のタイトルにもなっている「ソングライン」とは、映画から受けた印象だけの知識なのではっきりとした意味は分からないが、どうやらアボリジニが動植物の生態など地球の営みにクロスさせて歌で表現してきた目に見えない道のようなものらしい。その地球と溶け合った芸術性に引かれたチャトウィンが小説として昇華させ、今またヘルツォーク監督が映像で表現する。まさに芸術の連鎖であり、その神髄にこうやって気軽に接することができる映画という表現形態に対し、改めて感謝の思いが込み上げてきた。

 ヘルツォーク監督はこの映画の中で、「アボリジニは死に際して生まれた地に帰っていく」というチャトウィン自身の記述の通りに、彼は自分の終焉を迎えたと指摘するが、今年80歳になるヘルツォーク監督の人生にも当てはまることかもしれない。しかもこの作品で、長く日本のミニシアター文化を牽引してきた岩波ホールが幕を閉じるというのも、何やら暗示的だ。

 1974年に映画の定期上映を始めた岩波ホールは、世界中の知られざる名作、秀作の数々を日本に紹介することを旨としてきた。上映作品の国籍は実に幅広く、ここ最近でも、バングラデシュ、ジョージア、オーストリア、チリ、北マケドニア、ブータン、キルギス、アルゼンチンと、なかなかお目にかかれない地域の映画との出合いを創出。東京にいながらにして世界中を旅する感覚に浸ることができる貴重な場所だったが、コロナ禍は現実の旅ばかりか旅心にも容赦なかった。とりわけ劇場を支えた年配層の映画館離れが著しく、ついに7月29日で営業を終了する。

 今後、岩波ホールが担ってきた役割を引き継いでくれる映画館があるのかどうか、不安と心配しかないが、まずは長い間、われわれを楽しませてくれてありがとう、ご苦労さまでした、と感謝の言葉を贈りたい。そして最後の旅情を、どうかこの「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」という珠玉の作品で存分に味わってもらいたい。(藤井克郎)

 2022年6月4日(土)から、岩波ホールで公開。

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ヴェルナー・ヘルツォーク監督作品「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」から。亡き友、ブルース・チャトウィンがたどった道を訪ねるヘルツォーク監督(右) ©SIDEWAYS FILM

ヴェルナー・ヘルツォーク監督作品「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」から。旅をしながら小説を書いたブルース・チャトウィン ©SIDEWAYS FILM