第140夜「誰かの花」奥田裕介監督
横浜・黄金町の映画館、シネマ・ジャック&ベティは、観客としてはもちろん、取材でも何度か訪れている。最初に取材をしたのは2007年5月、産経新聞社が発行する横浜の地域ミニコミ紙「リマーニ」で「黄金町プロジェクト」の活動を取り上げたときだった。
1991年開館のジャック&ベティは2005年に一度、閉館の憂き目に遭っている。斜め向かいにあった横浜日劇や東京の渋谷シネマソサエティなどとともに同館を経営していた中央興業が廃業し、一旦は映写機の灯が消えた。ちなみに横浜日劇は、永瀬正敏主演の「私立探偵濱マイク」シリーズの舞台として知られた映画館で、3作目の「罠」(1996年、林海象監督)のときに劇場内で林監督にインタビュー取材したが、2階席には探偵事務所のセットがそのまま残っていて感動した覚えがある。
その横浜日劇は今や跡形もなく、何の変哲もないマンションが建っているだけだが、一方のシネマ・ジャック&ベティは華麗なる復活を遂げた。2007年3月、黄金町プロジェクトと称してこの地域一帯のまちづくりを考える活動をしていた3人の若者が運営を引き受け、新生ジャック&ベティとしてよみがえらせたのだ。彼らは最初から映画館経営が目的だったわけではなく、ここを拠点にしてさまざまなムーブメントを起こしていけたらと考えていて、だからフリーペーパーを発行するなど幅広い地域活動を手がけた。
その精神は今も変わらず、ジャック&ベティの業務は単に映画を上映するだけにとどまってはいない。開館25周年の2016年には、映画と映画館の本と銘打った季刊誌「ジャックと豆の木」を創刊。さらに30周年の昨2021年には、新作映画を企画、製作した。
その「誰かの花」が、同館での先行上映に続き、いよいよ全国で公開される。30周年企画映画というくらいだから、ジャック&ベティも登場するんだろうし、横浜っぽさがあふれる映画になっているのかと思いきや、これが全く地元感のない作品で、さすがは進取の気風に富んだシネマ・ジャック&ベティらしいなとうれしくなった。
一人暮らしの孝秋(カトウシンスケ)は、実家の団地に住む年老いた両親のことが気がかりで仕方がない。認知症の父、忠義(高橋長英)はときどき徘徊するようになり、一人で面倒を見ている母のマチ(吉行和子)の負担は増すばかり。長男だった兄は数年前、交通事故でこの世を去っており、いずれは自分が一緒に住むしかないかとも考えている。
そんなある日、強風が吹き荒れる中で、団地に越してきたばかりの住人が落下してきた植木鉢に当たるという事故が起きる。植木鉢は忠義夫妻の隣の住人がベランダに置いていたものだったが、父親の安否を心配して実家の部屋に飛び込んだ孝秋が目にしたのは、開け放しにしてあるベランダの窓と、土がついた忠義の手袋だった。
父親への疑いを必死に打ち消そうとする孝秋をはじめ、被害者の家族や隣室の男、忠義のヘルパーと、誰も悪いわけではないのにみんなが追い詰められていくという展開が何ともやり切れない。寂れた団地(恐らく横浜市緑区の竹山団地で撮影)の閉じられた空間も物語の深刻さをいや増すばかりだし、住民同士の人間関係が希薄な現代を象徴するかのような図式だ。
しかもこの主人公一家は、長男は若くして死に、次男は家族を持たず、父親は認知症で家族のことが分からない。全く希望の光が見えない中、それでも母親は何とか家族の絆をご近所との関係性の中で見いだしていこうとする。だが兄の死にわだかまりを抱いている次男は素直になれず、それどころか家族という幻影にこだわり過ぎて、自分を見失っていく。まるで矛盾に満ちたその行動も、閉塞感に覆われた現代社会では決して理解できないものではなく、その意味でものすごく今日的な映画と言えるかもしれない。
演じるカトウシンスケは、人間の性とも言える嫌な部分を見事に表現。長回しのカメラでとらえるその表情の暗さは特筆すべきもので、中でも事あるごとにベランダでたばこを吸うシーンが、どうしようもない情けなさを象徴する。認知症の父親を演じた高橋長英の焦点の定まらない視線もすさまじいものがあるし、母親役の吉行和子もさすがの存在感で出口の見えない重苦しさを醸し出していた。
ほかにも和田光沙、村上穂乃佳、篠原篤、それに子役の太田琉星と、出る人出る人みなことごとく巧みで、映画の世界観を揺るぎなく体現する。奥田裕介監督はドキュメンタリー映画の構成やミュージックビデオの演出など幅広く手掛けてきて、これが劇場公開2作目だが、代名詞的な作品になることは間違いないだろう。シネマ・ジャック&ベティはとうとう出てこなかったけど、やっぱり一筋縄ではいかない映画館だね。(藤井克郎)
2022年1月29日(土)から渋谷ユーロスペース、横浜シネマ・ジャック&ベティなど全国で順次公開。
©横浜シネマ・ジャック&ベティ30周年企画映画製作委員会
奥田裕介監督作品「誰かの花」から。孝秋(左、カトウシンスケ)は団地の実家に住む年老いた両親のことが気がかりだったが…… ©横浜シネマ・ジャック&ベティ30周年企画映画製作委員会
奥田裕介監督作品「誰かの花」から。閉塞感に覆われた団地で物語は進行する ©横浜シネマ・ジャック&ベティ30周年企画映画製作委員会