第122夜 「トムボーイ」セリーヌ・シアマ監督

 以前にも触れたことがあるが、映画のストーリーをどこまで書き込むかは非常に悩ましい問題だ。作品によって、かなり詳しく説明した方がいい場合もあれば、登場人物を紹介しただけでネタバレになるようなものもある。中には配給会社から、この点に関してはSNSなどで拡散しないように、とくぎを刺されることもあるけれど、ほとんどは書き手の感覚に委ねられているから、思いっきり頭を悩ますことになる。

 この「トムボーイ」は、思うに作品の背景や設定を書くことさえもネタバレになってしまうような作品だ。事前に何の情報も仕入れずに見るからこその驚き、感動に満ちあふれていて、だったらこんなところで書かなきゃいいだろう、とも言えるのだが、でもその感動をどうにかして伝えたいという思いもあるんだよね。ああ、もどかしい。

 舞台はフランスのとある地方の町。10歳の小学生の子が父親と一緒に車に乗ってこの町にやってくる場面から、映画は始まる。ショートカットのその主人公はとてもうれしそうににこにこしながら、時には父親の膝の上で一緒にハンドルを握ったりもする。屈託のない笑顔はすごく魅力的だが、さて、この子は男の子なのか、女の子なのか。それこそがこの映画の一番の肝になっている。

 やがて新居の集合住宅に入った主人公は、母親と幼い妹と合流する。家族は両親と子ども2人の4人で、その団欒ぶりからも仲の良さがうかがわれる。引っ越し早々、窓の外を見ていると、同じくらいの年齢の女の子の姿が目に入った。遊びに出た主人公に、さっきの少女が声をかける。私はリザ、君の名前は?

 さあ、ここから映画は急展開、主人公の子が遭遇するハラハラドキドキの物語となるのだが、つまりこの映画はその子のジェンダーに関するアイデンティティー、性自認がテーマで、観客は主人公と同じ目線で、壊れやすく不安定ながら、でもキラキラと輝いていたひと夏を追体験していくことになる。

 主人公の本当の性別はじきにわかる。と今度は、性別を隠すための涙ぐましい努力が繰り広げられる。リザの遊び仲間には悪ガキどももたくさんいて、彼らとサッカーや水浴びに興じる主人公は楽しそうに見えるものの、こちらとしてはいつ本当の性がばれるか気が気ではない。知らぬ間に肩入れして、固唾をのんで見守っている自分に気づかされる。

 この辺りの語り口、カメラワークが、もう見事の一語に尽きる。主人公は自分のアイデンティティーについて何も語らないし、カメラも余計な判断を与えることなく、そっと主人公に寄り添うだけ。これこそ映画でしか描けないスリルであり、サスペンスであり、しかもどこか甘酸っぱい子ども時代の遠い記憶をも呼び覚ます。うまいなあ、という以外、適当な言葉が見つからない。

 セリーヌ・シアマ監督と言えば、貴族の令嬢と女性画家との情感の絡み合いを描いた「燃ゆる女の肖像」(2019年)が、カンヌ国際映画祭の脚本賞を受賞するなど大いに評判を呼んだ。この「トムボーイ」はそれよりも前の2011年の作品で、彼女の長編2作目に当たる。10年がたったとは言え、子どもの性自認の問題は決して旧聞に属する話ではないし、むしろより切実になっているかもしれない。映画話法の素晴らしさも含めて、よくぞ日本で公開してくれたものだ。

 映画はその後、大人たちの無理解と子ども社会の残酷さが浮き彫りになっていくが、そんな中で一貫して主人公を支えていたのが幼い妹の純粋無垢な心だったというのも、実にすてきなんだよね。と、こんな書き方で、果たして作品の魅力は伝わっただろうか。(藤井克郎)

 2021年9月17日(金)から新宿シネマカリテなど順次公開。

© Hold-Up Films & Productions/ Lilies Films / Arte France Cinéma 2011

フランス映画「トムボーイ」から。新しい町に越してきた10歳の子のひと夏の経験が描かれる © Hold-Up Films & Productions/ Lilies Films / Arte France Cinéma 2011

フランス映画「トムボーイ」から。主人公はやがてリザと名乗る少女と仲良くなるが…… © Hold-Up Films & Productions/ Lilies Films / Arte France Cinéma 2011