第82夜「アンダードッグ」武正晴監督
東京国際映画祭のオープニング作品といえば、かつてはハリウッド大作のワールドプレミアというのが定番で、大物ゲストが来日して華やかに幕を開けたものだった。米ロサンゼルスに留学中だったので目撃はしていないが、1997年の第10回なんて、「エアフォース・ワン」(ウォルフガング・ペーターゼン監督)と「タイタニック」(ジェームズ・キャメロン監督)の豪華2本立てで、ハリソン・フォードやレオナルド・ディカプリオらが舞台挨拶に立った。アメリカでも報道されていたのを何となく覚えている。
近年はいささか地味な印象はぬぐえないが、新型コロナウイルスの影響で海外からのゲストがいなかった今年の第33回は、思いっきり骨太の日本映画が幕開けを飾った。この「アンダードッグ」、上映時間は前編、後編合わせて4時間36分もの超大作で、それでいてインディペンデントな香りが漂うというのもいい。10月31日のオープニング上映は無理だったが、EXシアター六本木で行われた11月2日の2度目の上映に駆けつけて、前編、後編を通しでたっぷりと味わうことができた。
主人公はロートルのボクサー、晃(森山未來)。日本チャンピオンに手が届く寸前まで行きながら夢をつかむことができず、今ではかませ犬=アンダードッグとして、若手の踏み台になってリングにしがみついていた。妻(水川あさみ)にはとうに愛想を尽かされ、デリヘルの運転手をしながら、年老いた父(柄本明)と自堕落な生活を送る毎日だ。
それでもときどきしか会えない息子の前では、かっこいい父親でいたい。そんな晃のボクシング人生を縦糸に、映画はさまざまな人間模様が絡み合って進行する。深夜、晃が一人で練習するジムにちょくちょく顔を見せる別のジム所属の若手ボクサー、龍太(北村匠海)。テレビ番組の企画でボクシングを始めた崖っぷちお笑い芸人の宮木(勝地涼)。彼らもまたそれぞれに挫折と葛藤を抱えていて、複雑な思いを背負って男たちはリングに上がる。こうして前編でも後編でも、手に汗握るボクシングの試合へと突き進んでいく。
この試合に至るまでの組み立て方、盛り上げ方が非常に巧みで、時間の長さなど忘れてスクリーンにぐいぐい引き込まれる。監督・武正晴、脚本・足立紳のコンビは、やはりボクシングを題材にして大評判を取った「百円の恋」(2014年)と同じで、このテンポ感はさすがと言うしかない。2人はさらに、コメディー映画「嘘八百」(2018年)でもタッグを組んでいて、今回も真剣勝負のシリアスなドラマの随所にユーモアがちりばめられている。笑いと涙と汗が目まぐるしく交錯する作劇術は見事の一語に尽きる。
さらに瞠目するのは、この映画の肝、ボクシングの試合の迫力だ。よく細かくカットを割ってスピード感を出すというのはありがちだが、この映画では大胆にも移動カメラでジャブの応酬をワンカットでとらえる映像が多く見受けられる。ボクサーを演じる森山、北村、勝地も相当なトレーニングを積んだに違いないが、長く武作品の撮影を務める西村博光のカメラワークが光る。しかも驚くことに、後楽園ホールの客席をびっしりと埋めた観客一人一人の表情がはっきりとわかるように撮っていて、ライブの興奮も伝える。スポーツの醍醐味は観客が入ってこそというのは、コロナ禍で無観客試合が続いたのを見ても改めて感じることだが、この映画はまさにその神髄を突いていると言えよう。
映画祭のうれしいところは、上映の際にゲストが登壇し、生の声を聞くことができることで、この日の上映にも武監督のほか、出演者の森山と勝地、脚本の足立が来場して、前編後に舞台挨拶、後編後に会場との間でQ&Aが実施された。武監督は席上、ボクシングの試合において観客の存在は大きいと認めつつ、「映画もお客さんがいないと映画にならない。今日、その瞬間に立ち会えたのは、本当に幸せに思っている」と話し、万雷の拍手を浴びた。なるほど、映画を見ることで自分も映画の一部になると思うと、観客にとっても幸せな瞬間かもしれない。(藤井克郎)
2020年11月27日(金)から、渋谷ホワイトシネクイントなどで前後編同日公開。
©2020「アンダードッグ」製作委員会
武正晴監督作「アンダードッグ」から。左から龍太(北村匠海)、晃(森山未來)、宮木(勝地涼) ©2020「アンダードッグ」製作委員会
武正晴監督作「アンダードッグ」から。晃(右、森山未來)の深夜練習を、たびたび訪ねる龍太(北村匠海)だが…… ©2020「アンダードッグ」製作委員会