難病の子を授かった友人家族の幸せを撮る

 初めてのドキュメンタリー映画は、小学校のころからの親友の家族を、カメラを通して見つめるというものだった。これまで友人たちとの経験を基に自らの出演でフィクションを紡いできた安楽涼監督(34)はある日、自作にも出てくれていた幼なじみの隆一から「家族を撮ってほしい」と頼まれる。隆一の生まれたばかりの長男は、メンケス病という約12万人に1人の難病を抱えていた。「最初に病気の話を聞いたときは、友人として何ができるか、全く考えられなかった。でも映画を撮るということだったら一緒にいることができる。僕らの関係性だからこそ撮れる何かを探るためにカメラはあった」と安楽監督は「ライフテープ」の撮影の日々を振り返る。(藤井克郎)

★病気の子を抱える世界中の家族に届けたい

 東京・西葛西で生まれ育った安楽監督の幼なじみで、音楽制作やダンスなどの活動をしているアーティストの隆一は、結婚後は茨城県に住んでいて、以前のように頻繁に会うということはなかった。久しぶりに遊びに誘おうと電話をしたときのことだ。安楽監督は隆一から、生まれたばかりの息子の珀久(はく)が指定難病のメンケス病だということを告げられる。その後、会うことになった隆一からかけられた言葉は「幸せに暮らしている俺たちの家族を撮ってほしい。それをちゃんとドキュメンタリー映画として完成させて、世界に向けて発信したい」というものだった。2022年10月10日のことだった。

 電話で子どもの病気のことを知った後、友人として何ができるのかを考えたとき、全くないということに気づいた安楽監督は、せめて一緒にいたいと思っていた。何か一緒にいる方法がないか、ずっと思案していたときに隆一からもたらされた「家族を撮ってほしい」という提案に、安楽監督は一も二もなく「やる」と即答した。

「珀久くんが生まれてまだ1年もたっていない時期でした。そのときに話してくれたのは、全く情報もない中でこの病気と向き合い、どうにかこうにか過ごしてきたけれど、俺たちは今、幸せなんだ、ということでした。俺たちみたいな家族はきっと世界中にいるから、だから大げさではなく世界なんだ、と。映画の中でも隆一夫婦が言っていますが、珀久が生まれたことには意味があると話していて、彼らはそのことを肯定的に捉えている。俺たちはちゃんと幸せに生きているんだ、ということを発信したかったんだと思います」と安楽監督は記憶をたどる。あっという間に「ドキュメンタリー映画を作ろうぜ」とまとまった。

 こうして隆一と妻の朱香(あやか)、長男の珀久、そして猫のフィガロの日常に、安楽監督のカメラが入り込むことになった。珀久くんのメンケス病とは、銅の欠乏によって神経、血管、毛髪、膀胱などにさまざまな症状が現れる指定難病で、現在のところ根本的な治療法は見つかっていない。珀久くんも数分ごとに痰の吸引が欠かせず、定期的に銅の注射を両脚に打つ必要がある。その都度、珀久くんは激しく泣き叫ぶが、安楽監督はそのままの様子をカメラに収めた。

「ただ一緒にいただけで、彼らを取材するという感覚はあまりなかったですね。取材となると根掘り葉掘り聞く恐れがある。それが間違いというわけではないが、彼らを傷つける可能性がある気がして、分からないことは分からないままでいた方がいいと思っていました。病気に関しても、医者が分からないのに僕が分かるわけがない。分かろうとする努力はしましたが、それよりも彼らの生活の一つ一つを撮ることの方がよっぽど大事でした」

★撮る、一緒にいる、そして編集で考える

 隆一の家族にカメラを向ける一方で、ドキュメンタリー映画についての勉強も一から始めた。それまでドキュメンタリー映画は数えるほどしか見たことがなく、隆一一家の記録を映画にするためには、ちゃんとドキュメンタリー映画の作り方を学ばないといけないと感じた。「彼らが魅力的ということが大前提ではあるのですが、それだけでは映画を撮れないという自信のなさもありました」と素直に明かす。

 これまでの作品も、自らの経験を基に隆一たち友人に彼ら自身の役で出演してもらうなど、フィクションとは言え、かなり私的な要素が多い。記者は密かに、セルフドキュメンタリーならぬセルフフィクションだなと思っているが、「脚本があったし、何を撮るかというのは事前に考える時間も準備もあった」わけでドキュメンタリーとは違う。「今までの作品では自分の視点を大事にしてきたが、ドキュメンタリーを作るとなったとき、隆一たちが感じていること、生きているということを視点に据えると、自分の考えでは追いつかない。これまでと同じことをしていたら全く作れない」ということに気づいた。

 手始めに「ドキュメンタリー・ストーリーテリング[増補改訂版] 『クリエイティブ・ノンフィクション』のつくりかた」というアメリカのメディア制作者による500ページを超す大書に目を通した。海外のドキュメンタリー映画の手法を紹介した本だったが、インタビューの要約の仕方など書かれている内容に安楽監督は違和感を覚える。「そもそもインタビューという感覚で隆一たちに接していないし、これは違うなと思いました。演出とか編集の仕方なども書かれていたんですが、あまりしっくりと来なくて……」

 何冊も読み漁る中で出合ったのが、「ドキュメンタリー映画の地平 世界を批判的に受けとめるために」をはじめとしたドキュメンタリー映画作家、佐藤真監督の著書で、そこから「阿賀に生きる」(1992年)といった一連の佐藤監督作品を視聴。さらには「息の跡」(2016年)や「空に聞く」(2018年)などの小森はるか監督作品に行き着いた。

「アメリカの本には、自分の考えがこうだから、ここでインタビューをして、こんなことを語ってもらって、といったことが書かれていた。でも僕は撮れたものから作るしか隆一たちの生活を映画化することはできないと思っていました。まずは撮る、一緒にいる、そして編集で考える、ということは佐藤さんの本から学んだことだし、小森さんの映画もそうだった。あの人たちも作品ができないかもしれないという不安の中にいただろうし、不安の中で闘ってきただろうと思うんです。でもあれだけ面白い映画を作っているんだから、心の指針になるというか、安心することができた。その選択に至ったことが、ドキュメンタリー映画について勉強して一番よかったことですね」

「映画を撮ることで彼らと一緒にいることができた」と話す安楽涼監督=2026年2月24日、東京都新宿区(藤井克郎撮影)

★大事なときは絶対にしゃべらず距離を置く

 そうは言ってもジレンマがないわけではなかった。取材ではない、インタビューはしない、と自らに言い聞かせながらも、尋ねたいことはいろいろとあった。途中からは、何で彼らはこんなにも幸せそうなんだ、という疑問が頭をもたげてきた。

「すごい、って思いました。幸せそうに見えるならそれだけでいいはずなのに、すごいと思うのは気になる部分があるってことですよ。カメラを向ける前のことは僕も知らないので、聞きたいなとは思っていましたが、でも聞けなかったら聞けなかっただけですし……。まあ待つか、という感じでしたね」

 その日は突然やってきた。珀久くんは喉の切開手術を受ければ窒息の心配はなくなり、数分置きの痰吸引もしなくて済む。ただ声は一生、失うことになるかもしれない。最近よく声を上げるようになってきた珀久だが、隆一と朱香は話し合いの結果、手術を受けることを決断する。

 隆一宅のリビングでそんな夫婦の会話を撮っていたとき、珀久がメンケス病だと分かったころのことをついと朱香が話し出し、当時つけていた日記を引き出しから引っ張り出した。「今は絶対に読めない」と涙を浮かべる朱香に、隆一も「俺も読んでいない」と返す。その間、およそ10分もの間、安楽監督は一言も発さず、無心にカメラを回し続けた。この映画の白眉とも言える場面であり、2人が背負ってきたものと重い決断が、映画を見ているこちら側にもずしりと伝わってきた。

「しゃべりそうになるときはありました。でも、ああ、という相槌すら、僕がこの映画に介入することになる。介入するというのは聞き手ということで、つまりはお客さんなんですよね。隆一たちの家族をどう思うかという他人の言葉ってお客さんだし、でもこの映画は彼らだけでどうにか乗り越えたという話なんだと思う。僕がしゃべったら僕の意志が入って、彼らが思っていたことがゆがんで伝わる可能性がある。大事なときには絶対に距離を置く、と思ったのがあのときでした」

 一方で後悔もある。隆一が病院に入っていく姿を撮り損ねたことがあり、隆一に頼んでもう一度、同じことをやってもらった。隆一は無言で車に戻って、カメラを構えた後で再び病院に向かったが、そのときに隆一が発した言葉は「いい?」だった。

「もう行っていい? という意味で聞かれて、うん、と答えてカメラを回したのですが、あの行為は人として間違っていたなと思っています。やっぱり僕は彼らをネタとして消費しようとしているんじゃないかという感覚になって、そのあと1人になってからよく分からない道端を撮っているんです。こんな大事なタイミングで、俺は何をしてしまったんだ、って」

 どうしても作り手のエゴみたいなものが出てくるものなのか、撮られたくないかもしれないことを撮られることの意味は何なのだろう、などと悶々としていたが、完成した作品を見て隆一と朱香は「感動した」と言ってくれた。「撮ってきたこと、一緒にいたことが肯定されたみたいで、よかったなと思いました」としみじみと語る。

★先が見えない不安な状況に差し込んだ光

 もともと野球少年で、高校までは野球一筋の中、唯一の趣味が映画だった。「ゴッドファーザー」(1972年、フランシス・フォード・コッポラ監督)などアメリカのマフィア映画が好みだったが、地元の西葛西にあったレンタルビデオ店で借りる程度で、それほど幅広く映画を見てきたわけではなかった。

 そんな安楽青年が映画の道に進むきっかけになったのは、高校を卒業して野球をやめた後、隆一からかけられた一言だった。「役者をやったらどうだ」

 だが何とか自主映画などに出演の機会を得たものの、どこで上映されているのかも分からないような状況が続く。だったら自分で作ろう、と25歳のときに自らの監督で映画を撮るが、発表する機会もなかった。もう東京にはいたくない。自分には才能がないと認めよう。そう思って祖母の家に逃げ込んで1人で作った短編「弱者よ踊れ」(2018年)が、さまざまな映画祭で評価される。「どうにか生き残った」と感じた。

 その後、隆一と、やはり小学校からの幼なじみでラッパーのDEGと3人で、「1人のダンス」(2019年)を手始めに「追い風」(2020年)、「夢半ば」(2022年)と唯一無二の「セルフフィクション」映画を制作。劇場公開されるなど、確固とした評価を獲得してきた。

 今回の初のドキュメンタリー映画「ライフテープ」も、東京を皮切りに全国で公開することが決まったが、当初はいざ完成したものの、先が見えない不安な状況だった。「劇映画とは勝手が違うし、僕が配給、宣伝して公開したところで、誰が見るんだよという感じでした。何しろ隆一たち家族3人と僕との4人だけでしたからね。4人いたから孤独ではなかったけれど、孤立はしていました」

 何とか公に上映したい、と焦る中、2025年の座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルのコンペティション部門に出品。作品にほれ込んだ審査員の1人、「なぜ君は総理大臣になれないのか」(2020年)の大島新監督がプロデューサーを買って出て、大島監督の映像制作会社、ネツゲンの制作協力、ドキュメンタリー映画を中心に配給、宣伝を手がける東風の配給で、前に向かって進み出すことになった。

「配給や宣伝など、誰かがこの映画に対して何かと手を尽くしてくれるなんて、当初からしたらとてもじゃないが考えられないことです」と感謝の言葉を口にする安楽監督は、編集作業を42回も重ねるなど、自分としては満足するまでとことんやり尽くしたという自負はある。

「世界に向けて発信したい、とすごく楽しそうに話していた隆一の望みを、友達として実現させたいとずっと思っていた。ちらっと上映するだけで終わる可能性もあった中、不特定多数に届けることができるなんて、ホント不思議ですよね」と語る安楽監督の表情には、ほっとしたような色がにじんでいた。

「届いてほしい人に届けられたら」と思いを語る安楽涼監督=2026年2月24日、東京都新宿区(藤井克郎撮影)

1991年生まれ。東京都江戸川区西葛西の出身。18歳で役者としてのキャリアをスタートし、自主映画などに出演。25歳のときに映画制作を始め、短編映画「弱者よ踊れ」(2018年)がながおか映画祭の審査員特別賞を受賞するなど多数の映画祭で入選。その後、「1人のダンス」(2019年)をはじめ、「追い風」(2020年)、「夢半ば」(2022年)と監督作が劇場公開される。ほかに「まっぱだか」(2021年)を片山享監督と共同監督しているほか、俳優として「恋愛依存症の女」(2018年、木村聡志監督)、「春原さんのうた」(2022年、杉田協士監督)などに出演。

出演:隆一、朱香、珀久、フィガロ

監督・撮影・編集:安楽涼 プロデューサー:大島新、前田亜紀 音楽:RYUICHI(EP「LIFE TAPE」より) 製作:すねかじりSTUDIO 制作協力:ネツゲン 配給:東風

2026年3月28日(土)から東京・ユーロスペースなど全国で順次公開

安楽涼監督「ライフテープ」から。カメラを通して親友の家族を見つめた ©『ライフテープ』製作委員会

安楽涼監督「ライフテープ」から。珀久くんの周りには笑顔があふれる ©『ライフテープ』製作委員会