見世物の世界から高い文化性に

 かつて映画館は、こんなにも豊かな空間だった。国立映画アーカイブの所蔵資料を東京・銀座の地下コンコースで展示する企画「モダン東京と映画館 シネマの街 銀座・丸の内・日比谷」の一環として2月22日、Ginza Sony Parkでクロストークが開かれ、多くの映画ファンが1930年代の東京の映画街に思いをはせた。

 この企画は、国立映画アーカイブが所蔵する資料の中から、銀座・丸の内・日比谷地区にあった映画館の資料写真や1930年代の映画ポスターなどで構成。この展示に関連して、この日のイベントでは、建築史家の藤森照信さんとフィルムアーキビストのとちぎあきらさんがトークを繰り広げた。

 昨年、「藤森照信のクラシック映画館」(青幻舎)を出版した藤森さんは、初期の映画館は外観や平面図は残っているものの、内部がどのような空間だったかよくわかっていないという。「映画館は闇の中で観ていましたから」と笑う藤森さんに対し、歴史的な記録映像を研究するとちぎさんは「今回の藤森先生の本の中に東京都の公文書館が持っている初期の映画館の平面図が載っていて、これは本当に貴重だと思います」と語る。

 とちぎさんが特に注目するのは、浅草にあった電気館という映画館で、入り口の方にスクリーンがあり、映写室が奥に配置されていた。「映写幕の脇から入っていく映画館というのは、シネコン以前にはそれほどなかったと思う。最初、こうやって作ってたんだというのはすごい驚きでした」

 そんなとちぎさんの告白に対し、藤森さんは「電気館というのは、電気を使った見世物ということで、見世物小屋のような性格だったのかも」と推論。宮崎駿監督が子どものころの体験として、どんな建物か覚えていないが、舞台に上って一日中、ごろごろ遊んでいたという話を引用し、「舞台の裏から見て面白がっていた子もいたし、お祭りみたいなものから始まったのかもしれませんね」と、初期の映画館の自由さを指摘した。

 やがて大正期になると、見世物の世界から脱し、より文化性の高い映画館が登場。加藤秋設計の新宿武蔵野館などは門構えが備わったヨーロッパ調の舞台で、おしゃれな空間の中で映画を見てほしいという思いが込められていた。その流れの最高峰として1933(昭和8)年に竣成したのが、銀座に誕生した日本劇場だった。「映画産業にとっても一つのピークだった。建築として見ても、当時最高の作り方だったと思います」と藤森さんは言う。

 5000人収容の威容を誇った日本劇場も1981年には閉館し、今や映画は映画館で観るものとは限らない時代になった。「やっぱり映画館の魅力はブラックボックスに入るということが大きい。私もどこか現実を逃避したいという気持ちもあって映画館に行く喜びがあったんじゃないかなと思い返したりします」ととちぎさんは、映画館の多様な魅力を強調していた。

「モダン東京と映画館」のオープン展示は23日までの開催。

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スライドを見せながら戦前の映画館について解説する藤森照信さん(左)ととちぎあきらさん=2020年2月22日、東京都中央区のGinza Sony Park(藤井克郎撮影)

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東京メトロ銀座駅の地下コンコースで開かれている展示企画「モダン東京と映画館 シネマの街 銀座・丸の内・日比谷」=2020年2月22日、東京都中央区(藤井克郎撮影)