☆柳ケ瀬は歌もシネマも昭和風
名古屋駅から乗り込んだJR東海道線岐阜行き普通列車の車両は、驚いたことに全ての窓の遮光幕が下げられていた。平日の昼下がりながら、2人掛けシートが縦に並んだ車内は割と混み合っていて、私が2人分を占拠する余地はない。せっかくの沿線風景を楽しみにしていた身としては残念至極だが、仕方がないのでドアの脇にもたれかかって、都会から田園地帯へと徐々に移りゆく窓外を漫然と眺めていた。
それにしてもさして日差しがまぶしいわけでもない曇り空なのに、どうしてみんな判で押したように遮光幕を下げるのだろう。在来線はともかくとして、名古屋に来るまでの東海道新幹線の車内でも閉じてある窓が多かったのは不思議でならない。今や新幹線の指定券は事前に好きな場所が選べるのだから、太陽の光がまぶしくて嫌だというのなら通路側の座席を取ればいいのだ。どちらかというと窓側の方が先に埋まる場合が多く、今回の旅の新幹線の席は通路側しか空いていなかったんだけど、遮光幕を下ろす人は窓側を遠慮してくれと声を大にして言いたい。車窓からの風景という旅の魅力の一つを奪わないでほしい。
とまあ、そんなことをねちねちと考えているうちに、4両編成の列車はあっという間に岐阜駅に到着した。岐阜県は何度も訪れたことがあるが、岐阜市内に降り立つのは、高校生のときにオリエンテーリングの大会に参加して、野山を5時間もさまよい走ったとき以来のような気がする。右手にこんもりと盛り上がる小高い丘は、岐阜城のある金華山か。その奥はるか向こうに飛騨の峰々が顔をのぞかせている。駅前にそびえる黄金の織田信長像に見送られて、いざ、ロイヤル劇場のある柳ケ瀬商店街へ。
柳ケ瀬と言えば、やっぱり美川憲一が歌った「柳ケ瀬ブルース」だ。レコードが発売されたのは1966(昭和41)年だから、そのころの記憶は定かではないが、テレビの歌番組で何度も耳にしたことがある。あの当時はほかにも青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」や「池袋の夜」といった夜の歓楽街を歌ったヒット曲がいっぱいあって、柳ケ瀬も子ども心に、ちょっと妖しげな大人の町というイメージだった。
もっともつい先日には、NHKのテレビ番組「ドキュメント72時間」で西柳ケ瀬を「日本一のシャッター街」などとして取り上げていて、にぎやかなのか、寂れているのか、本当のところはどうなんだろう。「西」が付かない柳ケ瀬はそこまでではないのかも。でも横浜の伊勢佐木町だってどんどん寂しくなっているしなあ。
果たして、縦横に何本ものアーケード街が走っている柳ケ瀬エリアは、平日の昼間にしてはそこそこ人通りもあって、全くのシャッター街というわけではなかった。更地になっているビルの跡地や空き店舗もあるが、暗渠に沿って地中海建築風のモニュメントが施されているバブル期の名残のような小路もあって、のんびりと街歩きをする分には結構楽しめる。そのアクアージュ柳ケ瀬と記された地中海風小道の先に、目指すロイヤル劇場ビルが鎮座していた。
2階部分まで吹き抜けのようになっているビルの正面入り口に、「昭和名作シネマ上映会」の看板とともに、映画スターの似顔絵がずらりと掲げられている。どれどれ、浜田光夫に吉永小百合、石原裕次郎に浅丘ルリ子、あれはエルヴィス・プレスリーか。森繁久彌、植木等、原節子、三船敏郎にオードリー・ヘップバーンの顔も見える。渥美清と高倉健は分かりやすいけど、うーん、この人は誰だろう。

☆夢に見たゴジラ対ガメラ
「数年前にラジオ番組の収録で来た若いレポーターの子に、この人分かる? この人分かる? って聞いたら、全部分からなかった。『男はつらいよ』も、何ですか、それ、って。星由里子が分からないならともかく、寅さんは分かるでしょう、帽子かぶってるんだし。もう二度と来るな、と思いましたよ」
ビルの4階にあるロイヤル劇場の奥の事務所で取材に応じてくれた岐阜土地興業の取締役企画本部長、磯谷貴彦さんは豪快に笑う。映画館の運営だけでなく不動産も手がける同社だが、磯谷さんは1979(昭和54)年の入社以来、映画館一筋で46年を迎えた。
「家から通えて楽しそうなところ」というのがこの会社を志望した理由だったが、磯谷さんが入社する前後5年は新入社員の採用がなく、就職できたのは巡り合わせとしか言いようがないと打ち明ける。しかも多角化経営で、映画館以外にもプールやボウリング場を所有したこともあれば、ホテルにシーツや浴衣を貸し出すリネン関連の子会社もあった。こっちの方が適しているとなったら、別の業務に携わっていた可能性もある。
「そもそも映画青年でもなく、映画館をどうしてもやりたいというわけではなかった」という磯谷さんだが、子どものころはご多分に漏れず怪獣映画が大好きで、母親に連れられて柳ケ瀬の映画館までバスに乗ってゴジラ映画を見に行ったことはよく覚えている。
たまたま映画館の仕事に就いたことで、封印されていた記憶が爆発する。入社直後は洋画専門の劇場の勤務だったが、邦画担当になったころに映画「ゴジラ」(1984年、橋本幸治監督)でゴジラが復活。平成に入ると毎年のように新作が製作され、岐阜のマスコミを誘って東京・砧の東宝撮影所に行ったり、エキストラとして出演したり、随分と楽しい思いを経験させてもらった。
「岐阜にゴジラのガレージキットを作っている人がいて、東宝の特殊美術の部屋を一緒に訪ねたこともあります。どんどん傾倒していって、今ではゴジラのコレクションが自宅の3部屋を占領している。娘からは、この産業廃棄物、どうするの、って言われています」
ロイヤル劇場ビルの表看板には、ゴジラとガメラが対決する怪獣ファンにとっては夢のような場面が描かれているが、これはもちろん磯谷さんの発想だ。
こうして大いに映画館ライフを謳歌していた磯谷青年だが、映画産業はすでに斜陽と言われて久しかった。全盛期の昭和30年代には柳ケ瀬を中心に8館もの劇場を経営していた岐阜土地興業も、もう映画館が主力という時代ではなかった。
1926(大正15)年創業の青雲館を前身とするロイヤル劇場は、磯谷さんが入社する2年前の1977(昭和52)年に現在のロイヤル劇場ビルに建て替えられ、洋画の封切館として新作の上映を続けていた。「E.T.」(1982年、スティーヴン・スピルバーグ監督)や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年、ロバート・ゼメキス監督)などヒット作もあったものの、2000年代に入って以降、デジタル化の大きな波に見舞われる。2009(平成21)年、3D大作の「アバター」(2009年、ジェームズ・キャメロン監督)を上映するには、デジタル映写機を導入せざるを得ない。だが岐阜土地興業ではすでにほかの劇場でデジタルに切り替えていた。1つのスクリーンしかないロイヤル劇場のために高価な機材を購入すべきか、いっそこのまま閉館してはどうか、など侃々諤々の議論が繰り広げられた。
そのとき、ある役員が提案した。「劇場の閉鎖はいつでもできる。それくらいならフィルム映写機を使って昔の映画を上映したらどうだ」と。
「私は、そんなかっこ悪いことはできない、と反対しました。さよなら上映会なんて、そんな後ろ向きの企画は嫌だ、と」と、当時は岐阜土地興業が運営する全映画館を統括する総支配人を務めていた磯谷さんは、やっぱり無理だよね、となることを期待した。
ところが、とりあえずやってみようと始めた「昭和名作シネマ上映会」が大受けに受けた。2009(平成21)年の秋、最初の作品は「銀座の恋の物語」(1962年、蔵原惟繕監督)だった。

☆終戦翌月にはバラック建てで興行
ちょっとこの辺りで磯谷さんが勤める岐阜土地興業の歴史をたどってみたい。「とにかく前へ前へ、過去は振り返るな、という社風で、昔の資料は全くと言っていいほど残っていない」と磯谷さんは言うが、隣の羽島市にある映画資料館の館長を長く務めていた近藤良一さんという方が、岐阜の映画館の変遷をつぶさに調べている。ロイヤル劇場のロビーにもその一端が掲示されているが、岐阜土地興業が設立されたのは1924(大正13)年、横田永之助によってとされる。日活の社長も務めた横田は、日活の常設館だった美殿館を岐阜で経営していた。
もともと美殿座という芝居小屋だった美殿館は1917(大正6)年に映画の専門館になっている。ほかにも1910(明治43)年創業の電気館をはじめ、1920(大正9)年には衆楽館、1922(大正11)年には旭座と、次々と映画館が開館し、柳ケ瀬は岐阜の一大映画街としてにぎわった。そして1926(大正15)年、現在ロイヤル劇場がある場所に青雲館がオープンする。つまりロイヤル劇場は、2025(令和7)年が誕生してちょうど百年目ということになる。
その後、1929(昭和4)年に、それまでライバルだった電気館、美殿館、衆楽館、旭座、青雲館の5館が合併し、衆楽館を経営していた土屋禎一が社長に就任した。新たな会社の社名は、美殿館の会社名と同じ岐阜土地興業だった。
さらに芝居小屋だった岐阜劇場を吸収するなど、映画の振興とともに会社もどんどん大きくなっていったが、時は戦争の時代へと進んでいく。戦況の悪化とともに強制疎開を余儀なくされ、1945(昭和20)年7月9日の深夜には岐阜市を米軍のB29爆撃機が襲来。約900人の死者、1000人以上の負傷者を出し、柳ケ瀬一帯も壊滅した。
「現在は中日新聞がある場所にあった丸物百貨店の建物と岐阜劇場のみが鉄筋だったのでそれだけが残り、後は焼け野原になったと聞いています」と磯谷さんは言うが、映写機とフィルムは地方に疎開させていて無事だった。娯楽に飢えていた岐阜市民はたくましかった。バラック建てで丸太を椅子代わりに、もう9月には映画の興行を行っていたという。あっという間に柳ケ瀬は元の歓楽街に戻っていった。
青雲館も1948(昭和23)年に映画館として復活。大映の上映館を経て、1955(昭和30)年には新興企業の東映の封切館となる。館名も岐阜東映、岐阜松竹、スカラ座、再び岐阜東映と変遷し、1977(昭和52)年、4階建てのロイヤル劇場ビルに建て替え。最上階に定員300人の洋画封切館、ロイヤル劇場が誕生した。
岐阜土地興業のその他の劇場はその後、どうなったか。すでに戦前からあった映画館で戦後も存続したのは、青雲館のほか衆楽館と岐阜劇場で、1946(昭和21)年に第一映画劇場、1947(昭和22)年に満鉄会館が柳ケ瀬に、1952(昭和27)年に日本劇場が岐阜駅近くに開館。1956(昭和31)年には第一映画劇場に地下劇場が、1964(昭和39)年には衆楽館が改装され、ニュー衆楽が併設されたが、映画産業の斜陽化に伴い徐々に閉館となる。衆楽館の跡地は現在、無印良品となり、1973(昭和48)年に廃館となった岐阜劇場は岐阜髙島屋百貨店になるが、その髙島屋も2024(令和6)年に閉店している。
だが第一映画劇場はその後、岐阜東宝を経て、1995(平成7)年に8階建てのCINEXに生まれ変わり、現在は3スクリーンを有するシネコンとして、ハリウッド大作からミニシアター系のアート作品まで多様な新作を上映している。また岐阜市の北東に隣接する関市には2003(平成15)年に8スクリーンのCINEXマーゴをオープン。映画興行が相変わらず岐阜土地興業の生命線であることには変わりがない。

☆映写技師の心配は雷の位置
さてさて、ロイヤル劇場に話を戻そう。取材に訪れた日は「追悼 篠田正浩監督」特集の一環として「美しさと哀しみと」(1965年)の上映だった。前方の壁一面に端から端までびっしりと大きなスクリーンが張られていて、緩やかに傾斜している座席は前との距離も気にならない広さだし、天井までの高さも十分で、もう50年近くも前に建てられた雑居ビルのワンフロアとは思えないくらいゆったりとしている。
上映が始まる前までは、「骨まで愛して」(1966年)や「二人の銀座」(1966年)、「月の法善寺横丁」(1960年)といった懐かしの歌謡曲の数々がBGMとして流れている。もろ磯谷さんが言うところの「かっこ悪い」昭和だな、と思っているうちにブザーが鳴って暗転。後方から聞こえるカタカタカタというフィルム映写ならではの動作音に続いて、加賀まりこのコケティッシュな魅力全開の篠田作品が始まった。
途中、カタカタカタがちょっと大きくなったかなと思ったら、ガッシャンと映写機を切り替える音が続く。そうそう、これこそが映画を見る際のお決まりの音だった。最近はドルビーアトモスやらFLEXOUNDやら、リアルな音を追求した最先端の音響システムがどんどん開発されているが、このカタカタカタ、ガッシャンよりも映画らしい音はないんじゃないかなという気がする。
上映が終了し、場内が明るくなってくると、再び昭和歌謡のBGMが流れ出す。今の回の入場客は15人前後といったところか。「何だかよく分からん映画やった」とつぶやいて出ていく年配の男性客に向かって、清掃担当の従業員が声をかける。「何回見ても大丈夫ですからね。ゆっくりしていってくださいね」
「2009(平成21)年に旧作を始めた最初のころは、洋画も上映していたんです。『アラビアのロレンス』(1962年、デヴィッド・リーン監督)とか、『大脱走』(1963年、ジョン・スタージェス監督)とか。でも今はフィルムが皆無ですから、洋画はやっていません。そんなこんなで16年たちましたが、最初は16年も持つとは思いませんでしたね。映写機が壊れたら、もうメーカーがやっていないから修理もできない。いつまでも続けてくださいね、と言われるんですが、映写機に言ってくれ、と思いますわ」
そう語る磯谷さんによると、現在、常設でフィルムだけの上映をしている映画館は、東京のラピュタ阿佐ヶ谷、大阪の新世界東映、そしてここロイヤル劇場の3館しかない。作品は1週間で切り替えていて、当初はワンコイン500円の入場料だったが、現在は100円値上げして600円で提供している。
「最低限のぎりぎりでやっている」と話す磯谷さんだが、特にコロナ禍で客足はがくっと減った。以前は週に500~600人が来ていたが、今は300人程度にとどまっている。支えてくれていた常連のシニア層も年々、鬼籍に入る人が増えている。
「いつもちらしを郵送している方が20人くらいいらっしゃったんです。ある日突然、一人の娘さんから手紙が来て、いつも上映を楽しみにしていた父が先月、他界しました、とありました。どんどん世代が変わっていくんです」と磯谷さんはしんみりと話す。
作品の選定も簡単ではない。マニアからの要望もあり、市川右太衛門主演の「旗本退屈男」シリーズを上映したいと東映に掛け合ったが、こちらからリクエストしたリストの中でフィルムを貸し出してもらえるものは1本もなかった。新世界東映で使った記録があった別のある作品を取り寄せたときは、缶を開けるとフィルムがぱさぱさで、まるで落ち葉のように崩れ落ちたという。すでにプログラムに載せていたが、残念ながら上映できないと別の作品に差し替えた。
普通の状態のフィルムでも、到着したそのままではかけられない。2台の映写機を用い、上映中に一度だけ切り替えるオートメーションの方式で上映しており、事前に2本のリールにつないでおく必要がある。そうすれば、朝にスイッチを入れれば夜の終映まで、一切機械に手を触れることなく何回転でも投影してくれる。フィルム映写というと、映写技師が付きっきりで操作するというイメージがあったが、随分と便利にはなったものだ。
「でもつなぐだけで1時間はかかる。1週間で番組を変えるので、金曜、土曜は特に忙しいですね」と映写担当のスタッフは打ち明ける。現在、映写は2人のベテランスタッフが担当しているが、2ブロック先のCINEXと掛け持ちということもあって、やることは多い。フィルムは貴重なものなので傷なく返すということと電源を落とさないということはとりわけ気を使っている。
「特に雷は怖くて、いつもどこに雷があるか、位置を確かめている。これは映写の人間しか分からないと思いますよ」との言葉に、今では世の中でも貴重な存在となった仕事へのプライドがちらっと表れた気がした。

☆青雲館で映画を学んだ篠田正浩
客足は減っているとは言え、ただ手をこまぬいているわけにはいかない。2024(令和6)年には、この年が岐阜土地興業の百周年だったこともあり、美川憲一のヒット曲を原案とした「柳ケ瀬ブルース」(1967年、村山新治監督)を上映。オリジナルフィルムを修復するところから手がけたが、当時の柳ケ瀬界隈で撮影されたこともあって、「死んだおじいさんが映っている」などお客さんは大喜びだった。記念イベントのゲストとして美川本人を招いたが、けなげにフィルム上映を続ける映画館の実情に接して「しぶとく生きるのよ」との名言を残してくれた。
さらに2025(令和7)年からは「岐阜ROYAL映画部meet the kinema」と称して、ゲストのトークショー付き上映会を企画。1月の第1回は名取裕子を呼んで主演映画「吉原炎上」(1987年、五社英雄監督)を上映した。6月には第2回として竹中直人監督の「東京日和」(1997年)を監督のトーク付きで企画したが、この作品は昭和ではなく平成の製作だ。「しらっと決めましたが、誰も文句なんて言わない。昭和が終わってもう37年ですからね。一時代を超えています」と磯谷さんは言う。
アトランダムに名作をかけ続けていると、ニュースになることもある。2015(平成27)年に原節子が亡くなっていたことが発表されたときは、ちょうど彼女が出演している映画が上映中だった。「全国で唯一だったようで、NHKの全国ニュースで取り上げられました」と磯谷さん。ほかにも2014(平成26)年に菅原文太が他界したときは「太陽を盗んだ男」(1979年、長谷川和彦監督)をやっていたし、2025(令和7)年3月に篠田正浩監督の訃報が伝えられたときは、監督作の「乾いた花」(1964年)を上映していた。
私が取材に行ったときも篠田監督の追悼上映だったが、岐阜市出身の篠田監督とは青雲館の時代から縁が深い。小学校のころから柳ケ瀬の映画館に通い、柳ケ瀬で見た「姿三四郎」(1943年、黒澤明監督)をきっかけに映画監督になりたいと思ったということを公言していた篠田監督には、生前は何度もゲストとして来場してもらった。2003(平成15)年に「スパイ・ゾルゲ」(2003年)の舞台挨拶で来たときには、「ぼくは映画を青雲館で学んだ」と色紙にさらさらと書いてくれたほどだ。
もっとも宛名を岐阜土地興業ではなく、「岐阜土地興行さま」と間違えていたが、磯谷さんとしては指摘するわけにもいかず、「ありがとうございました」と言って受け取ったところ、後日、「間違えてるよね、ぼく」と正しく書き直したものを送ってきてくれたという。その色紙は、今も岐阜土地興業の応接室に飾ってある。
「映画は私にとってはビジネスであり、文化ではなかった。でも文化なのかもしれないなと気付かせてくれたのが、昭和名作シネマ上映会という気がします」と磯谷さんはしみじみと語る。

☆長良川の稚鮎を肴に濃姫を一杯
そんな磯谷さんが「おかげさまで空きテナントがない」と言うビル全体を探索する。3階は岐阜市の外郭団体である一般財団法人岐阜市未来のまちづくり財団が管理するレンタルスペースになっていて、2階にも誰でも休憩できる空間として「やながせRテラス」が入居。2階にはほかにスナックやカフェ、雑貨店が入っているのに加え、1階も飲食店やブティックなどで埋まっている。
1階の入り口脇にあるデニム中心のアパレルショップは東京のグループ企業が手がける若者に人気の店で、レトロな雰囲気に惹かれて2017(平成29)年に出店してきた。スターの似顔絵看板が店にもかぶっており、入居の際、磯谷さんが「外しましょうか」と聞いたところ、オーナーからは「これがいいんだよ」と言われたほどだ。1週間前に着任したばかりという20代の店員は「この辺りはクラブやライブハウスなどもあって、若い子も結構多い。レトロなだけではないと思います」と町の魅力を語る。
2階のやながせRテラスにいた岐阜市未来のまちづくり財団の藤井治美さんによると、ロイヤル劇場ビルの隣の旧長崎屋があった空き地は、イベントもできる広場として整備される予定だ。毎月第3日曜には柳ケ瀬のアーケード街を使ってサンデービルヂングマーケットという市場が開かれるなど、徐々に新しい動きが起こっている。「マーケットには120組くらいが参加していて、中には柳ケ瀬で自主店舗を持ちたいという人や、すでに出店している人もいる。これからどんどんにぎわいが出てくればいいなと思います」と藤井さんは言う。
実際、柳ケ瀬エリアを歩いていると、昭和から時間が止まっているかのような古びた通りに出くわすなど、なかなか興趣に富んでいる。そんな1軒、やながせ倉庫と称する建物は、今にも朽ち果てそうな長屋風の4階建ての中に雑貨店やらギャラリーやらがひしめき合っている。「ホント、よく持ちこたえていますよね」と話す古着屋を開いている女性は、最近は商店街のレトロな風景をカメラに収めに来る旅行客も増えてきていると指摘する。
ただホテルなど宿泊施設は岐阜駅周辺に固まっているし、夜の飲食店もタマミヤエリアと呼ばれる柳ケ瀬の南側の地区に集中している。初日は近くの何の変哲もないビジネスホテルに泊まり、タマミヤで入った居酒屋も何とも素っ気なく、岐阜らしい名物料理は味わえなかった。どうせならと2日目は「にっぽんの温泉100選」にもランクインしている市内の長良川温泉で万延元年創業と160年以上も続く老舗旅館に予約を入れていたが、これが大正解だった。シーズンオフだったせいか部屋代もリーズナブルで、目の前には鮮やかな緑の中を長良川が穏やかに流れる。ちょっと小雨模様だったこともあり、名物の鵜飼観光船はパスしたが、漁火を横目に地酒で一杯というのも乙なものだ。旅館お勧めの居酒屋へと歩を進める。
日本泉は岐阜駅の南口に蔵を構える酒造所で、織田信長や濃姫といった銘柄があるらしい。まずは生原酒のにごり酒を注文する。白濁した見た目からのイメージとは異なり、とてもすっきりとして爽やかな風味だ。なます、サツマイモ煮、厚揚げ煮、山かけと盛りだくさんのお通しでぐいぐい進む。
季節は鵜飼も始まったばかりの5月の下旬。出始めでまだ小さいという稚鮎の天ぷらを頼む。苦みが弱く、さっぱりとして軟らかい。尻尾までかりっと香ばしく、やっぱり日本泉が進みに進む。お代わりは同じ生原酒のしぼりたてに、続けて濃姫を常温で1合。決して辛口ではないが、べたっとした甘さはなく、味わい深い。いや、ちょっと酔いが回るのが早そうだ。
地元ブランドの岐阜枝豆を挟んで、明方(みょうがた)ハム焼きで締める。明方ハムは郡上八幡で生産されているハムで、塩味もしっかりしていて噛み応えがある。マカロニサラダなどに入れると脂がコクを出して最高らしい。単なる焼きでも、酒のつまみとしてはこの上ない。
すっかり雨も上がったようだ。宿に着いて酔いをさましてから温泉に赴く。単純鉄冷鉱泉のお湯は黄金色のにごり湯で、しっとりと滑らかで肌がすべすべする。露天風呂に浸かると初夏の川風がそよそよと顔をなで、気持ちがいい。ああ、極楽極楽、と思わず口走りそうになる。

☆新京極や千日前にも匹敵するにぎわい
翌日は早朝から晴れ。このまま東京に戻ってもよかったが、帰りにどうしても寄りたいところが出てきた。そう、岐阜の映画館史について微に入り細をうがって調査、研究をしている近藤良一さんが長く館長を務めていた羽島市映画資料館だ。羽島は東海道新幹線の岐阜羽島駅でおなじみだが、調べてみると岐阜駅から名古屋鉄道の電車を乗り継いで、30分ちょっとで行くことができる。運がよければ近藤さんにもお会いすることができるかもしれない。映画資料館がどういうものかも見てみたいし、とキャリーバッグを引っ提げて、名鉄岐阜駅から名古屋本線各駅停車の須ケ口行きに乗り込んだ。
途中、笠松駅で竹鼻線各駅停車に乗り換え、羽島市役所前駅で降りる。駅前にどーんと市役所の建物が建っているわけでもなく、ごくごく静かな住宅街をキャリーバッグを転がして歩いていくと、歴史民俗資料館と建物を共有する形で映画資料館がたたずんでいた。
入館料の大人1人300円を払って中に入る。来館の目的を伝え、近藤さんのことを尋ねると、今日は来ていないと言う。親切にも連絡を取ってくれると言うので、謝辞を伝えつつ荷物を預かってもらい、いざ映画資料館の資料展示室へ。
足を踏み入れて驚いた。展示室の部屋中びっしり、所狭しと35ミリや16ミリの数々のフィルム映写機に、巻取機、アンプ、館内放送用スピーカー、水銀整流器と映画館で使用されていたさまざまな機材が陳列されている。いや、陳列というよりも、とにかく置かれているといった方が正しいかもしれない。
見ればそれぞれ、どこの劇場で使われていたかの表示が付いており、知立第一劇場(愛知県知立市)、弥富館(愛知県弥富市)、森盛会館(長野県根羽村)といった閉館された映画館から持ち込まれたもののようだ。「岐阜土地興業より寄贈」と記された移動用映写機もあった。
中で多くを占めるのが羽島市にあった竹鼻朝日館の品々で、大入袋、半額券、招待券から非常用ロウソク、アークカーボン、フィルムセメントに真空管、キセノンランプと実に多彩だ。そもそもこの場所が竹鼻朝日館の建っていた跡地で、1934(昭和9)年に開館した朝日館は、1971(昭和46)年に閉館した後もずっとそのままの姿で残っていたという。それを市が建て替え、1996(平成8)年に歴史民俗資料館と映画資料館としてオープンした。
残念ながらこの日は会えなかったが、後日、近藤さんに電話で話を聞くことができた。現在は資料館の非常勤相談役を務める近藤さんは「私は柳ケ瀬で育ったようなもので、どれだけ通ったか分からない」と映画館への感謝と愛着を口にする。
「テレビだったら寝転がって見たり、チャンネルを変えたり、脇道にそれることがある。そこへ行くと映画館は椅子に縛り付けられているから集中できますよね。みんなと一緒に笑ったり、でも時に面白くないと、何でみんな笑ったんやろと後で考えたり、そういうところがいいですね」と話す近藤さんは、今もフィルムで上映しているロイヤル劇場は極めて稀少な価値があると敬意を表する。
「岐阜は映画興行が盛んなところで、人口規模から言っても映画館がたくさんあった。全盛期の柳ケ瀬は大変なにぎわいで、京都の新京極、大阪の千日前に匹敵するほどだったんです。そういう土地柄だからいまだに頑張ってくれるのかな、と思いますね」

☆名古屋に息づく四十年映画館
資料館でたっぷりと時間を費やした後、竹鼻名物というみそぎ団子を頬張りながら帰路に就いた。FIN。と本来ならなるべきところだが、この旅情にはエンドクレジットの後にもおまけがついている。
名古屋で東海道新幹線に乗り換える間、ちょっと顔を出してみたいところがあった。名古屋駅西口を出てすぐ近くにあるシネマスコーレという映画館だ。
1983(昭和58)年に映画監督の若松孝二によって開設されたシネマスコーレは、ニュースなミニシアターとして幅広く話題を集めてきた。近年も、当時は副支配人だった坪井篤史さんを取り上げた「劇場版シネマ狂想曲 名古屋映画館革命」(2017年、樋口智彦監督)や、コロナ禍で奮戦する同館に密着した「シネマスコーレを解剖する。 コロナなんかぶっ飛ばせ」(2022年、菅原竜太監督)といったドキュメンタリー映画に、井浦新や東出昌大の出演でシネマスコーレ黎明期の実話を映画化した「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」(2024年、井上淳一監督)が公開されるなど、映画ファン、映画館ファンの間では知らない者はいない存在だ。
私も「シネマスコーレを解剖する。 コロナなんかぶっ飛ばせ」のときにプロデューサーのインタビュー記事を映画雑誌に書いているし、創業時から長く支配人を務めてきた代表取締役の木全純治さんには何度もお目にかかっている。ただ映画鑑賞にしろ取材にしろ、今まで一度も現地を訪れたことがなかった。
前々から機会があったらぜひ訪ねてみたいと熱望していたが、ようやくこのような形で実現した。約束もなく突然の訪問で極めて失礼なこととは思ったが、木全さんは忙しいであろうに手放しで歓待してくれて、劇場内のほか2021(令和3)年に新たに始めたスコーレ映画塾のスタッフルームなども見せてもらった。
百年映画館の取材で岐阜に行っていたことを話すと、「うちは42年になるんですよ」と木全さん。「ぜひ百年まで」と振ると、「さあ、どうでしょう」と言いつつも、まんざらでもない笑顔だった。

《ロイヤル劇場》1926(大正15)年、青雲館として創業。岐阜土地興業株式会社が所有、運営。岐阜県岐阜市日ノ出町1‐20
※2026年3月刊行「百年映画館」(草思社)から抜粋
